銀座界隈で食事をしようというとき何度か利用していたのが、手打ち麺が名物の中華「ヤンヤン」。
銀座四丁目の交差点から歌舞伎座方面に晴海通りを進み、三原橋交差点手前をちょいと左に入ったところにある。
狭い入り口脇に「麺打ち作業場」があり、
おじさんが麺を幾重にも伸ばしながら黙々と「打って」いる。
食べるところは2階。
おしゃれな銀座界隈にありながら、庶民的でまっとうな空間。
ここの麺は、手打ちだけあって、麺の太さにムラがあり、その食感が楽しいのだ。
ところがこの「ヤンヤン」、今週末で閉店してしまうという情報をネット上で発見!
なんでも、震災の影響で、中国人の職人さんが帰国してしまうからとか。
入り口で麺打ってたおじさんか?
こんなところにも震災の影響が・・・・。
そこでさっそく、「ヤンヤン」食べ納めに出発。
大好物の、胡麻をきかせた坦々麺・・・・
汗をかきかき味わって、お店にお別れ。
で、出かけたのが・・・
■METライブビューイング「オリー伯爵」
[2011年5月10日(火) 東劇]
早口言葉のような小気味良いパッセージ、
わくわくするようなクレッシェンド、
そして何よりも職人魂を感じさせるロッシーニの喜劇オペラも大好物のひとつ。
「セヴィリアの理髪師」1幕フィナーレの六重唱なんか、景気づけに聴くときの必須ナンバーだ。
この「オリー伯爵」は初めて観るオペラ。
ドン・ファン的なオリー伯爵が、十字軍遠征で男たちが出払ってしまった城の留守を預かる女城主を相手に巻き起こすドタバタ好色コメディ。
人気のテノール、ファン・ディエゴ・フローレスの巡礼尼僧変装姿が宣伝写真となっていて、何だか楽しそうなオペラ、と期待して出かけた。
キャストは、そのファン・ディエゴ・フローレス演じるオリー伯爵のほか、女城主アデルにディアナ・ダムラウ(ソプラノ)、オリー伯爵の小姓イゾリエにジョイス・ディドナート(メゾ・ソプラノ)という配役。
指揮はマウリツィオ・ベニーニ。
演出はバートレット・シャー。
で、感想はというと・・・
確かにロッシーニの喜劇オペラは楽しいんだけど、
なんだか「不自由」さとか「窮屈」な感じがしてしまったんだなぁ・・・。
それは、この作品が、作曲者がフランスに行ってから、フランス語で作った作品だからかもしれない。パリの空気の中で、自分の音楽やイタリア・オペラに対する期待感が知らず知らずのうちに重圧になってしまっていたのかも。
ロッシーニは、オペラの世界ではもう仕事をやりつくして、音楽からほとばしり出てくるような「才気」が何故か感じられないのだ。
コメディア・デラルテが、フランスをはじめヨーロッパ各地でもてはやされ、変質していくうちに、本来のイタリア的なエネルギーが減衰していったことなんかを連想してしまった。
ロッシーニは、このあと「ウィリアム・テル」を作曲して、オペラ作曲家としてのキャリアを早々とリタイア。ひたすら美食の道を探求して、ドットーレのような体型になっていくのでした。
(このあたりは、勝手な想像。こんど、ロッシーニの伝記でもちゃんと読んでみよう)
バートレット・シャーの演出も、イマイチなんだなぁ。
18世紀の劇場での上演という設定にして、舞台裏のスタッフ仕事や古風な舞台機構なんかを見せながら「劇中劇」風に進行するのは面白いアイディアなんだけど、その劇構造が活かされていない。
背中の曲がった舞台監督の爺さんの大儀そうな演技、その助手の若造が効果音の風音を出すウィンドマシーンを回す時の不気味な表情、それらの「意味」がちっとも伝わってこない。
出演者たちの、舞台のオンとオフの動きにも「違い」が感じられない。
「オリー伯爵」の劇中劇はともかく、「舞台外」にドラマがないのだ。
観客は、謎の隠者や巡礼女に変装して出てくるファン・ディエゴ・フローレスや、華のある天然ぶりで女城主を演じるディアナ・ダムラウ、ズボン役のジョイス・ディドナートなど、主役たちの喜劇的な演技に短絡的に笑っていたが、演出としてはまだまだ改善の余地が多くあって、不完全燃焼だな。
そうそう、主役たちの動かし方にばかり演出作業に時間をとられたのか、合唱はほとんどほったらかしの状態。
特に、1幕フィナーレの六重唱・七重唱のところなんか、合唱の動きがもっとあったら躍動感が増したろうに、残念!
オリー伯爵と女城主アデル、小姓イゾリエの3人が繰り広げる暗闇でのベッドシーン。
大儀そうな舞台監督の爺さんが、ベッドの背を起こして客席からもよく見えるようにしてくれる。
真っ暗闇の寝室で、男女3人の手足が絡み合いながら繰り広げる三重唱に、観客も沸いていたが、これを見ながら歌舞伎の「だんまり」という様式がいかに洗練されていて素晴らしい手法であるかを再認識。「見えていない」ということが、歌舞伎ではとてもよく「見える」のである。
残念ながら、シャー演出では、「見えてない」のか「見えている」のか、もっと言えば、相手を認識して「いる」のか「いない」のかが、どうでもいいような所作なのである。
観客は短絡的に楽しんでいたけどね。
もう一言、文句を・・・。
フィナーレで、城の女たちと、巡礼の修道女に化けて侵入したオリー伯爵一派の男たちが、十字軍の帰還にあわてて別れを惜しんだ後、帰還した夫たちと何食わぬ顔で再会を祝していたが、おいおい、城の女たちは巡礼女に変装した男たちを「受け入れて」たんだっけ???前のシーンで、何も描いてなかったんじゃなかったっけ?
女のしたたかさを演出したいんだろうけど・・・・・
う~ん、ドラマとしての描き方が雑なんだよなぁ。
まぁ、音楽の制約とかもあるんだろうし、描きたいことが全部描けるとは限らないのがオペラの難しさなんだろうけど、こういう「説明不足だけど描いちゃいました」みたいな演出にはストレスを感じるなぁ。
と、いろいろと辛口の感想を並べたが、観客はそんな細かいところまで観ずに、短絡的に楽しんじゃうようで、妙にその辺の空気に毒づきたくなってしまった次第。
このプロダクションだって、合唱や助演の部分をもっと緻密に練り込めば、いい舞台になると思うよ。

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