■METライヴビューイング「イル・トロヴァトーレ」
[2011年5月28日(土) 新宿ピカデリー]
メトロポリタン・オペラのライヴビューイング、
今シーズンも、あと2演目。
しかも最後の「ワルキューレ」は、
あまりの長さからか、3枚綴りのMET-LV回数券が使えず特別料金!
映画館だって5時間以上も粘られたら、「特別料金」にせざるを得ないってことか?
ワーグナーってのは、どこまで行っても「規格外れ」な男なんだなぁ・・・。
おぉっと!今日の上演は、
オペラの「規格」の中で、きちんとドラマチックな世界を描いてくれた、
われらがイタリアの誇るマエストロ、ジュゼッペ・ヴェルディでした。
ちなみに再来年の2013年は、ヴェルディとワーグナー双方の生誕200年。
世界中の歌劇場は、どんなことになってしまうんだろうか・・・???
話を今日の上映にもどします。
今日観たのは、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」。
主役4人の配役は次の通り。
マンリーコ:マルセロ・アルヴァレス(T)
レオノーラ:ソンドラ・ラドヴァノフスキー(Sop)
ルーナ伯爵:ディミトリ・ホヴォロストフスキー(Bar)
アズチェーナ:ドローラ・ザジック(M.sop)
指揮は、レヴァインに代わって、マルコ・アルミリアート。
演出は、デイヴィッド・マクヴィガー。
主役の4人が、どれも力づよく、量感にあふれた歌唱と舞台上の存在感で、
いやもうイタリア・オペラの世界を堪能しました!
ヴェルディのオペラを歌うんなら、やっぱりこれくらいの体格と歌唱力がないとね!
それにヴェルディの音楽が、
なんと躍動感や推進力、情感にあふれていることか!
オペラである以前に、音楽というものはこうでなくちゃ!
こういう音楽にのってドラマが繰り広げられるから、
愛や憎しみ、嫉妬や復讐、その他もろもろ人間のドロドロが渦巻く世界を見せられても、
スカッ!とした気分で劇場を後にできるのである。
いやもう、イタリアオペラの醍醐味を思う存分堪能させていただきました。
キャストの中では、ルーナ伯爵を演じたディミトリ・ホヴォロストフスキーがBravissimo!
銀髪で格好良く、歌唱も演技も素晴らしい。
マンリーコを歌ったマルセロ・アルヴァレスもBravo!
この体格、野性味、声の艶と力強さは、イタリア人テノールの典型。
もう理屈なんかいらない世界。
レオノーラのソンドラ・ラドヴァノフスキーもBrava!
二人の男(ルーナ伯爵とマンリーコ)が恋の火花を散らして嫉妬に苦しむほどの、絶対的な美貌・・・というわけではないが、何よりも、ヴェルディ作品のヒロインに欠かせない声の力強さと気品がある。
アズチェーナのドローラ・ザジックは、ジプシー女そのものといった存在感。
深みのあるメッツォ・ソプラノで、唯一このドラマの人間関係の秘密を知る「女」を好演してBrava!
2幕冒頭の「鍛冶屋の合唱」をはじめ、兵士やジプシーたちに扮した合唱もBravi!
歌唱ももちろんだが、助演も含めて、一人一人の存在感が素晴らしい。
この量感を出せてこそ、イタリア・オペラだろう。
デイヴィッド・マクヴィガーの演出は、METの盆(回り舞台)を効果的に使い、スピーディな舞台転換でドラマをわかりやすく丁寧に描いていた。
複雑なドラマの世界と、その中で生きる登場人物の心理や関係がわかりやすい。
変な読み替えをする演出ではなく、METのこういうプロダクションには本当に好感がもてる。
というわけで、イタリア・オペラの醍醐味を思う存分堪能した3時間でした。
2011年5月28日土曜日
2011年5月26日木曜日
「1日3時間しか働かない国」
最近、街なかのカフェで仕事をしたり、本を読んだりすることが多い。
打合せや用事の場所にもよるが、この街ならこのカフェ、と、だいたい快適に過ごせる店というのはチェック済み。
当然、パソコンの電源の有無なんかも重要なポイント。
見ていると、営業と営業の間なのだろうか、スーツに身を包んだビジネスマンなんかも、結構長時間過ごしている。それも、ぐったりと居眠りなんかして・・・。
人は、一日に何時間くらい、仕事をするものなんだろうか・・・?
それも、ただ事務所にいるだけでなく、本当に頭と体がフル稼働して、
充実して「自分の仕事」をするというのは・・・。
まぁ、職種や立場にもよるだろうが、そんなにも長くはないはずだよね。
どうです皆さん?
そんなことを考えているときに出会ったのが、この本。
タイトルの上には、「誰もが幸せになる」とある。
原題は「Lettere della Kirghisia(キルギジアからの手紙)」。
著者は、シルヴァーノ・アゴスティ Silvano Agosti。
2005年イタリアで発表され、ベストセラーになった本だ。
キルギジアという、アジアのどこかの架空の国にやってきた西欧人の「僕」。
この国では、どんな職場でも、一日に3時間以上働く人はいない。
人間らしさを尊重する社会であるために、「時間」というものが大切にされ、
そこから生まれたゆとりある時間を活用することで、教育問題も医療問題も解決してしまう。政治問題だって家庭問題だって・・・。
そこで見聞きした感動を「手紙」という形で本国の友人に知らせるのだ。
荒唐無稽なお伽話のような国かもしれないが、
そこには行き詰まりきってしまい、打開の道が見いだせない欧米型現代社会(日本も含めて)の矛盾を解決するための、重要なヒントが含まれているようだ。
政治も経済も、電力問題も、すべてに行き詰まり感が漂うアジアのどこかの実在の国の人たちも、
お伽話だと思って読んでみるといいですよ。
お伽話とか昔話の中には、けっこう「真実」や「解決法」が隠されているものです。
打合せや用事の場所にもよるが、この街ならこのカフェ、と、だいたい快適に過ごせる店というのはチェック済み。
当然、パソコンの電源の有無なんかも重要なポイント。
見ていると、営業と営業の間なのだろうか、スーツに身を包んだビジネスマンなんかも、結構長時間過ごしている。それも、ぐったりと居眠りなんかして・・・。
人は、一日に何時間くらい、仕事をするものなんだろうか・・・?
それも、ただ事務所にいるだけでなく、本当に頭と体がフル稼働して、
充実して「自分の仕事」をするというのは・・・。
まぁ、職種や立場にもよるだろうが、そんなにも長くはないはずだよね。
どうです皆さん?
そんなことを考えているときに出会ったのが、この本。
タイトルの上には、「誰もが幸せになる」とある。
原題は「Lettere della Kirghisia(キルギジアからの手紙)」。
著者は、シルヴァーノ・アゴスティ Silvano Agosti。
2005年イタリアで発表され、ベストセラーになった本だ。
キルギジアという、アジアのどこかの架空の国にやってきた西欧人の「僕」。
この国では、どんな職場でも、一日に3時間以上働く人はいない。
人間らしさを尊重する社会であるために、「時間」というものが大切にされ、
そこから生まれたゆとりある時間を活用することで、教育問題も医療問題も解決してしまう。政治問題だって家庭問題だって・・・。
そこで見聞きした感動を「手紙」という形で本国の友人に知らせるのだ。
荒唐無稽なお伽話のような国かもしれないが、
そこには行き詰まりきってしまい、打開の道が見いだせない欧米型現代社会(日本も含めて)の矛盾を解決するための、重要なヒントが含まれているようだ。
政治も経済も、電力問題も、すべてに行き詰まり感が漂うアジアのどこかの実在の国の人たちも、
お伽話だと思って読んでみるといいですよ。
お伽話とか昔話の中には、けっこう「真実」や「解決法」が隠されているものです。
2011年5月25日水曜日
「風をつかまえた少年」
世界中で話題の本を読む。
アフリカの小国マラウイの少年が、独学で風車を作って、自家発電に成功するというドキュメンタリー、
「風をつかまえた少年(原題:The Boy Who Harnessed the Wind)」だ。
主人公は、ウィリアム・カムクワンバという14歳の少年。
アフリカの最貧国といわれるマラウイで生まれ育ち、学校の通い始める。
しかし、国を襲った飢饉。
学費が払えず、学校も中退。
でも、この少年、図書室から本を借りては片っ端から読んでいく。
そんな中、出会ったのが「エネルギーの利用」という本。
表紙にあった風力発電の風車の写真に魅かれ、
やがて独力で風車をつくりはじめる。
風車があれば、井戸から電力で水を汲み上げることができ、
母親が往復2時間もかけて井戸まで水を汲みにいく必要もなくなる。
風車があれば、部屋に明かりを灯して、夜でも勉強ができる。
風車があれば、生活の中で電気を利用でき、収穫だって安定する。
この素朴な理想を現実のものとするために・・・。
そして、独力で発電の原理を習得し、
お金がないのでゴミ捨て場の廃品や使い古しのゴム草履などを活用し、
いとこや友人の協力を得て、
風車を作ってしまうのだ。
そして、そのことはある日、インターネットを通じて国境を越えて知られ、
国際会議で脚光を浴び、一躍有名人になる。
ほんのここ数年の話だ。
だが、この本に書かれていることは、そんな「風車をつくった」少年の単なる成功話ではない。
アフリカというものを理解する上で欠かせない、風習(それも魔術師!)や貧困、政治の混乱などが、アフリカに生を受け、そこで育っていった現代の少年の視点で活き活きと描かれている。
本の半分以上を占めるそれらの記述が実に興味深く、感動する。
物と情報にあふれている現代「先進国」社会。
震災からの復興に国家と国民の力が試されているこれからの日本。
現代の物質文明のまっただ中で、そしてまさにエネルギーを得るために原子力にたより、その事故で国内は混乱し、国際的信用も失墜しかけている日本で、今、この本が教えてくれるものは、あまりにも大きく深い。
今は20代の青年となってアメリカの大学に留学中のウィリアム・カムクワンバ君。
その活動を知ることができるHPはこちら。
http://williamkamkwamba.typepad.com/
これからの彼の活動を応援しながら、
「アフリカ」「マラウイ」にも注目していきたいと思う。
アフリカの小国マラウイの少年が、独学で風車を作って、自家発電に成功するというドキュメンタリー、
「風をつかまえた少年(原題:The Boy Who Harnessed the Wind)」だ。
主人公は、ウィリアム・カムクワンバという14歳の少年。
アフリカの最貧国といわれるマラウイで生まれ育ち、学校の通い始める。
しかし、国を襲った飢饉。
学費が払えず、学校も中退。
でも、この少年、図書室から本を借りては片っ端から読んでいく。
そんな中、出会ったのが「エネルギーの利用」という本。
表紙にあった風力発電の風車の写真に魅かれ、
やがて独力で風車をつくりはじめる。
風車があれば、井戸から電力で水を汲み上げることができ、
母親が往復2時間もかけて井戸まで水を汲みにいく必要もなくなる。
風車があれば、部屋に明かりを灯して、夜でも勉強ができる。
風車があれば、生活の中で電気を利用でき、収穫だって安定する。
この素朴な理想を現実のものとするために・・・。
そして、独力で発電の原理を習得し、
お金がないのでゴミ捨て場の廃品や使い古しのゴム草履などを活用し、
いとこや友人の協力を得て、
風車を作ってしまうのだ。
そして、そのことはある日、インターネットを通じて国境を越えて知られ、
国際会議で脚光を浴び、一躍有名人になる。
ほんのここ数年の話だ。
だが、この本に書かれていることは、そんな「風車をつくった」少年の単なる成功話ではない。
アフリカというものを理解する上で欠かせない、風習(それも魔術師!)や貧困、政治の混乱などが、アフリカに生を受け、そこで育っていった現代の少年の視点で活き活きと描かれている。
本の半分以上を占めるそれらの記述が実に興味深く、感動する。
物と情報にあふれている現代「先進国」社会。
震災からの復興に国家と国民の力が試されているこれからの日本。
現代の物質文明のまっただ中で、そしてまさにエネルギーを得るために原子力にたより、その事故で国内は混乱し、国際的信用も失墜しかけている日本で、今、この本が教えてくれるものは、あまりにも大きく深い。
今は20代の青年となってアメリカの大学に留学中のウィリアム・カムクワンバ君。
その活動を知ることができるHPはこちら。
http://williamkamkwamba.typepad.com/
これからの彼の活動を応援しながら、
「アフリカ」「マラウイ」にも注目していきたいと思う。
2011年5月23日月曜日
長距離列車だっておまかせ!
先日のドヴォルザーク特集のプログラムが、チェコ国鉄のベテランSL機関士のような指揮ぶりで楽しめたので、ペトル・ヴロンスキー親方のもうひとつのプログラムにも出かけることにした。
■ヴロンスキー指揮、読売日響第504回定期演奏会
[2011年5月23日(月) サントリーホール]
曲目は・・・・
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(独奏:清水和音)
マーラー:交響曲第5番
モーツァルトとマーラー、どちらもプラハとかチェコにゆかりの作曲家だ。
ドヴォルザークのときは、ローカルな急行か快速列車のような味わいだったが、
マーラーという「長距離列車」の長旅も大いに楽しめた。
ヴロンスキー親方の指揮ぶりは、「豪快」「闊達」「雄渾」「武骨」といった表現がぴったり。
音楽の「山」や「谷」を、大きなアクションで全身全霊で進んでいく。
情感を込めてたっぷり表現しているので、「長い」曲がそのまま「長く」感じられる。
でも、その「長さ」が苦痛にはならず、「車窓を満喫」できる旅の楽しさにつながるのだ。
マーラーの第5交響曲という、ある意味、見慣れた「景色」が人間の尺度で体感できた。
決してスマートな指揮姿ではないが、
こういう指揮者、好きだなぁ・・・。
ヴロンスキー親方、オーケストラ曲のときは安心して乗っていられるが、
合せもののコンチェルトは、けっこう危なっかしいところもあって、
かえって微笑ましかったりもするしね。
器用で無個性な指揮者が多い昨今、
こういう親方タイプで人間味の感じられるマエストロは貴重な存在。
けっこう気に入った!
■ヴロンスキー指揮、読売日響第504回定期演奏会
[2011年5月23日(月) サントリーホール]
曲目は・・・・
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(独奏:清水和音)
マーラー:交響曲第5番
モーツァルトとマーラー、どちらもプラハとかチェコにゆかりの作曲家だ。
ドヴォルザークのときは、ローカルな急行か快速列車のような味わいだったが、
マーラーという「長距離列車」の長旅も大いに楽しめた。
ヴロンスキー親方の指揮ぶりは、「豪快」「闊達」「雄渾」「武骨」といった表現がぴったり。
音楽の「山」や「谷」を、大きなアクションで全身全霊で進んでいく。
情感を込めてたっぷり表現しているので、「長い」曲がそのまま「長く」感じられる。
でも、その「長さ」が苦痛にはならず、「車窓を満喫」できる旅の楽しさにつながるのだ。
マーラーの第5交響曲という、ある意味、見慣れた「景色」が人間の尺度で体感できた。
決してスマートな指揮姿ではないが、
こういう指揮者、好きだなぁ・・・。
ヴロンスキー親方、オーケストラ曲のときは安心して乗っていられるが、
合せもののコンチェルトは、けっこう危なっかしいところもあって、
かえって微笑ましかったりもするしね。
器用で無個性な指揮者が多い昨今、
こういう親方タイプで人間味の感じられるマエストロは貴重な存在。
けっこう気に入った!
2011年5月18日水曜日
二人のアレクサンドルによるロシア・プロ
■アレクサンドル・ヴェデルニコフ指揮、N響定期
[2011年5月18日(水) サントリーホール]
今回のN響B定期(第1702回定期)は、オール・ロシア・プロ。
グリンカ:「ルスランとリュドミラ」序曲
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ラフマニノフ:交響的舞曲
というもの。
指揮は、アレクサンドル・ヴェデルニコフ
ピアノは、シモン・トルプチェスキがキャンセルになって、
替りにアレクサンドル・メルニコフ。
(曲も、チャイコフスキーの第2番から第1番に変更)
二人のアレクサンドルによる、お国ものプログラムだ。
冒頭の「ルスラン~」は、とても豪快な演奏。
会場が一気にロシアの空気で満たされたよう。
次のチャイコフスキーのコンチェルトは、一転して甘~いお菓子のよう。
確かにピアノ・コンチェルトの名曲(というか有名曲)なことは確かだが、
久しぶりに聴くと、聴いていて恥ずかしくなるくらい、甘美なチャイコ節が満載。
それを二人のアレクサンドルが、甘いところは徹底的に甘く、
ロシアの一流ホテルのケーキ職人のように(行ったことはないけれど・・・)
描いていく。
後半のラフマニノフは、なんだかつかみどころのない曲だったなぁ。
聴くのは初めてじゃないけれど、どうも聴いていて今一つ曲にのりきれないのだ。
(これは、ラフマニノフを聴くときにいつも感じること・・・)
「交響的舞曲」というタイトルから連想されるように、
たとえばベートーヴェンの第7交響曲のような「舞踊の聖化」かというと、そうでもないし、
何かを描いている標題音楽というわけでもない。
甘いのか、豪放なのか、繊細なのか、広大なのか・・・・。
ひとことで言ってつかみどころがないのである。
まぁ演奏は、オケもよく鳴っていたし、良かったけれどね。
ヴェデルニコフの指揮は、ロシア人らしく豪快で闊達。
今度は、ロシア物でないプログラムで聴いてみたいな。
[2011年5月18日(水) サントリーホール]
今回のN響B定期(第1702回定期)は、オール・ロシア・プロ。
グリンカ:「ルスランとリュドミラ」序曲
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ラフマニノフ:交響的舞曲
というもの。
指揮は、アレクサンドル・ヴェデルニコフ
ピアノは、シモン・トルプチェスキがキャンセルになって、
替りにアレクサンドル・メルニコフ。
(曲も、チャイコフスキーの第2番から第1番に変更)
二人のアレクサンドルによる、お国ものプログラムだ。
冒頭の「ルスラン~」は、とても豪快な演奏。
会場が一気にロシアの空気で満たされたよう。
次のチャイコフスキーのコンチェルトは、一転して甘~いお菓子のよう。
確かにピアノ・コンチェルトの名曲(というか有名曲)なことは確かだが、
久しぶりに聴くと、聴いていて恥ずかしくなるくらい、甘美なチャイコ節が満載。
それを二人のアレクサンドルが、甘いところは徹底的に甘く、
ロシアの一流ホテルのケーキ職人のように(行ったことはないけれど・・・)
描いていく。
後半のラフマニノフは、なんだかつかみどころのない曲だったなぁ。
聴くのは初めてじゃないけれど、どうも聴いていて今一つ曲にのりきれないのだ。
(これは、ラフマニノフを聴くときにいつも感じること・・・)
「交響的舞曲」というタイトルから連想されるように、
たとえばベートーヴェンの第7交響曲のような「舞踊の聖化」かというと、そうでもないし、
何かを描いている標題音楽というわけでもない。
甘いのか、豪放なのか、繊細なのか、広大なのか・・・・。
ひとことで言ってつかみどころがないのである。
まぁ演奏は、オケもよく鳴っていたし、良かったけれどね。
ヴェデルニコフの指揮は、ロシア人らしく豪快で闊達。
今度は、ロシア物でないプログラムで聴いてみたいな。
2011年5月16日月曜日
チェコのSLでめぐるドヴォルザーク
■ペトル・ヴロンスキー指揮、読売日響
[2011年5月16日(月) サントリーホール]
まるでチェコ国鉄のSL機関士のような印象の指揮。
朴訥としていて親方気質。
派手さや優美さは微塵もない。
でも、カーブから上り坂、トンネルや鉄橋など、
鉄路の特徴を知り尽くして列車を走らせるベテラン機関士のよう。
それも、国際特急とか花形列車ではなく、
普通列車かせいぜいはローカルな急行か快速。
予定されていたズデニェク・マーツァルが震災の影響でキャンセル。
急きょチェコから来日したペトル・ヴロンスキーの指揮ぶりは、
見ていてそんな感じがした。
曲は、オール・ドヴォルザーク・プロ。
1曲目は、「それーっ!お祭りだーっ!!」とばかりに、
威勢よくはじまった序曲「謝肉祭」。
続いて、アラベラ・美歩・シュタインバッハーをソリストに迎えての
ヴァイオリン協奏曲。
後半は、交響曲第8番。
列車の車窓からチェコの山河や小さな町の景色を眺めるような、
楽しい演奏会でした。
(鉄ちゃんとしても有名だったドヴォルザークの特集だから、
そんなことを連想させたのかも・・・)
ただし、ペトル親方のチェコ国鉄SL列車。
深紅のドレスに身を包んだ美貌のソリストとの協奏曲は、
なんだか運転しずらそうだったな・・・。
ソリストは情感たっぷりに歌いあげるんだけど、
どうもチェコ人親方の呼吸とは微妙に違うよう。
正直なところ、なんだか曲が長く感じられてしまった。
読響には1987年以来2度目の客演だとか。
今年65才。
この人で、ヤナーチェクとかスメタナとか聴いてみたいな。
[2011年5月16日(月) サントリーホール]
まるでチェコ国鉄のSL機関士のような印象の指揮。
朴訥としていて親方気質。
派手さや優美さは微塵もない。
でも、カーブから上り坂、トンネルや鉄橋など、
鉄路の特徴を知り尽くして列車を走らせるベテラン機関士のよう。
それも、国際特急とか花形列車ではなく、
普通列車かせいぜいはローカルな急行か快速。
予定されていたズデニェク・マーツァルが震災の影響でキャンセル。
急きょチェコから来日したペトル・ヴロンスキーの指揮ぶりは、
見ていてそんな感じがした。
曲は、オール・ドヴォルザーク・プロ。
1曲目は、「それーっ!お祭りだーっ!!」とばかりに、
威勢よくはじまった序曲「謝肉祭」。
続いて、アラベラ・美歩・シュタインバッハーをソリストに迎えての
ヴァイオリン協奏曲。
後半は、交響曲第8番。
列車の車窓からチェコの山河や小さな町の景色を眺めるような、
楽しい演奏会でした。
(鉄ちゃんとしても有名だったドヴォルザークの特集だから、
そんなことを連想させたのかも・・・)
ただし、ペトル親方のチェコ国鉄SL列車。
深紅のドレスに身を包んだ美貌のソリストとの協奏曲は、
なんだか運転しずらそうだったな・・・。
ソリストは情感たっぷりに歌いあげるんだけど、
どうもチェコ人親方の呼吸とは微妙に違うよう。
正直なところ、なんだか曲が長く感じられてしまった。
読響には1987年以来2度目の客演だとか。
今年65才。
この人で、ヤナーチェクとかスメタナとか聴いてみたいな。
2011年5月15日日曜日
音楽が先か言葉が先か・・・と言われても
■METライブビューイング「カプリッチョ」
[2011年5月14日(土) 新宿ピカデリー]
「カプリッチョ」は、リヒャルト・シュトラウス最後のオペラ。
オペラにおいて「音楽が先か、言葉が先か」という、
いわゆる、ブッフォン論争を題材にした作品。
だいたい、こんなことを題材にしなけりゃならないほど、
オペラ創作の世界では考えられることは全部やりつくしてしまった、
ともいえるのかも・・・。
もっとも、このオペラが作られたのが、第二次大戦まっただ中のドイツだから、
政治や民族なんかとはかけ離れた、あたりさわりのない題材にしたのかもね。
舞台はパリ郊外の伯爵の城の豪華なサロン。
ここには伯爵とその妹マドレーヌの二人が住んでいる。
(それと、執事や大勢の召使いたちも・・・やれやれ)
令嬢マドレーヌの誕生日の前日、
詩人や作曲家、劇場支配人(いわゆる演出家)、
パリの花形女優なんかが集まってくる。
伯爵令嬢マドレーヌに求愛する二人の男、
詩人のオリヴィエと作曲家のフラマンのライバル関係を通して、
音楽が先か言葉が先か、という一大テーマについて論じている。
まぁ、ひとことで言って、生の舞台芸術で観るには、あまりにもどうでもいい世界。
貴族の世界だろうが、古代の王家の世界だろうが、
そこに人類共通のテーマである
「愛」や「憎しみ」や「裏切り」や「友情」があるからこそ、
現代に上演されても人の心を打つのである。
貴族のお城で、
音楽が先か、言葉が先かって言われてもねぇ・・・。
たしかに、台本作者とか作曲家にとっては、
「音楽」と「言葉」のどちらを重視するかは大問題だろうが、
お客にとっては、
「楽しけりゃ」いいのである。
「感動すれば」いいのである。
そのことをオペラの中で演説してのけた劇場支配人ラ・ローシュの場面が
一番説得力があって、面白く見ることができた。
芸術家からみれば、彼は「俗物」かもしれないが、
お客の心をつかみ、興行を成立させるための
「職人魂」を持っているのだ。
(もっとも、この場合の「お客」とか「興行」は、現代とは同じではないけどね)
そもそも、オペラの中の繰り返しだって、彼の言うように、
お客には二度くらい聴かせてやらなきゃわかってもらえないからなのだ。
プロデューサーならではの劇作ノウハウである。お見事!
過去のオペラに対する批判があるんだろうが、
むしろこっちの方が説得力あるな。
召使いたちが後片付けの場面で、
「サーカス芸の方が好きだ」
とか言っているのを聞いて、
ああ、「芸術」と「エンターテイメント」が早くも分離しているんだな、
なんてことも痛感。
というわけで、わかっちゃいたけど、
あまりにもどうでもいい世界のオペラでした。
おっと、リヒャルト・シュトラウスの音楽は、美しくて素晴らしかったけどね。
それに、音楽的によく考え抜かれて作曲されているのも実感できました。
(でも、やっぱりオペラは弦楽六重奏じゃなくて、
心浮き立つ管弦楽の序曲で始まってほしいな・・・)
そうそう、
フィナーレの伯爵令嬢マドレーヌの独白の場面の直前、
月の光の間奏曲でホルンの音ががさついたのはいただけなかったなぁ。
リヒャルト・シュトラウスの音楽でホルンは最重要パートのはず。
プレッシャーもあるだろうが、ここは決めて欲しかったなぁ。残念!
ルネ・フレミング演じる伯爵令嬢は、さすがの気品。
劇場支配人ラ・ローシュ役のピーター・ローズが、
俗っぽさの中にも威厳と風格が感じられてBravo!
それにしても、イタリア人(イタリア人歌手の男女)って、
どうしてあんなふうに描かれるのかね。
ベルカントで歌って、食べて、愛して、言い争って・・・
これこそが「生きてる」ってことなのに!
音楽が先か言葉が先か、なんて考えるより、
よっぽど人間的である。
イタリア贔屓としては、こんなところも噴飯ものなのであります。
[2011年5月14日(土) 新宿ピカデリー]
「カプリッチョ」は、リヒャルト・シュトラウス最後のオペラ。
オペラにおいて「音楽が先か、言葉が先か」という、
いわゆる、ブッフォン論争を題材にした作品。
だいたい、こんなことを題材にしなけりゃならないほど、
オペラ創作の世界では考えられることは全部やりつくしてしまった、
ともいえるのかも・・・。
もっとも、このオペラが作られたのが、第二次大戦まっただ中のドイツだから、
政治や民族なんかとはかけ離れた、あたりさわりのない題材にしたのかもね。
舞台はパリ郊外の伯爵の城の豪華なサロン。
ここには伯爵とその妹マドレーヌの二人が住んでいる。
(それと、執事や大勢の召使いたちも・・・やれやれ)
令嬢マドレーヌの誕生日の前日、
詩人や作曲家、劇場支配人(いわゆる演出家)、
パリの花形女優なんかが集まってくる。
伯爵令嬢マドレーヌに求愛する二人の男、
詩人のオリヴィエと作曲家のフラマンのライバル関係を通して、
音楽が先か言葉が先か、という一大テーマについて論じている。
まぁ、ひとことで言って、生の舞台芸術で観るには、あまりにもどうでもいい世界。
貴族の世界だろうが、古代の王家の世界だろうが、
そこに人類共通のテーマである
「愛」や「憎しみ」や「裏切り」や「友情」があるからこそ、
現代に上演されても人の心を打つのである。
貴族のお城で、
音楽が先か、言葉が先かって言われてもねぇ・・・。
たしかに、台本作者とか作曲家にとっては、
「音楽」と「言葉」のどちらを重視するかは大問題だろうが、
お客にとっては、
「楽しけりゃ」いいのである。
「感動すれば」いいのである。
そのことをオペラの中で演説してのけた劇場支配人ラ・ローシュの場面が
一番説得力があって、面白く見ることができた。
芸術家からみれば、彼は「俗物」かもしれないが、
お客の心をつかみ、興行を成立させるための
「職人魂」を持っているのだ。
(もっとも、この場合の「お客」とか「興行」は、現代とは同じではないけどね)
そもそも、オペラの中の繰り返しだって、彼の言うように、
お客には二度くらい聴かせてやらなきゃわかってもらえないからなのだ。
プロデューサーならではの劇作ノウハウである。お見事!
過去のオペラに対する批判があるんだろうが、
むしろこっちの方が説得力あるな。
召使いたちが後片付けの場面で、
「サーカス芸の方が好きだ」
とか言っているのを聞いて、
ああ、「芸術」と「エンターテイメント」が早くも分離しているんだな、
なんてことも痛感。
というわけで、わかっちゃいたけど、
あまりにもどうでもいい世界のオペラでした。
おっと、リヒャルト・シュトラウスの音楽は、美しくて素晴らしかったけどね。
それに、音楽的によく考え抜かれて作曲されているのも実感できました。
(でも、やっぱりオペラは弦楽六重奏じゃなくて、
心浮き立つ管弦楽の序曲で始まってほしいな・・・)
そうそう、
フィナーレの伯爵令嬢マドレーヌの独白の場面の直前、
月の光の間奏曲でホルンの音ががさついたのはいただけなかったなぁ。
リヒャルト・シュトラウスの音楽でホルンは最重要パートのはず。
プレッシャーもあるだろうが、ここは決めて欲しかったなぁ。残念!
ルネ・フレミング演じる伯爵令嬢は、さすがの気品。
劇場支配人ラ・ローシュ役のピーター・ローズが、
俗っぽさの中にも威厳と風格が感じられてBravo!
それにしても、イタリア人(イタリア人歌手の男女)って、
どうしてあんなふうに描かれるのかね。
ベルカントで歌って、食べて、愛して、言い争って・・・
これこそが「生きてる」ってことなのに!
音楽が先か言葉が先か、なんて考えるより、
よっぽど人間的である。
イタリア贔屓としては、こんなところも噴飯ものなのであります。
2011年5月11日水曜日
短絡的に楽しむオペラの観客
銀座界隈で食事をしようというとき何度か利用していたのが、手打ち麺が名物の中華「ヤンヤン」。
銀座四丁目の交差点から歌舞伎座方面に晴海通りを進み、三原橋交差点手前をちょいと左に入ったところにある。
狭い入り口脇に「麺打ち作業場」があり、
おじさんが麺を幾重にも伸ばしながら黙々と「打って」いる。
食べるところは2階。
おしゃれな銀座界隈にありながら、庶民的でまっとうな空間。
ここの麺は、手打ちだけあって、麺の太さにムラがあり、その食感が楽しいのだ。
ところがこの「ヤンヤン」、今週末で閉店してしまうという情報をネット上で発見!
なんでも、震災の影響で、中国人の職人さんが帰国してしまうからとか。
入り口で麺打ってたおじさんか?
こんなところにも震災の影響が・・・・。
そこでさっそく、「ヤンヤン」食べ納めに出発。
大好物の、胡麻をきかせた坦々麺・・・・
汗をかきかき味わって、お店にお別れ。
で、出かけたのが・・・
■METライブビューイング「オリー伯爵」
[2011年5月10日(火) 東劇]
早口言葉のような小気味良いパッセージ、
わくわくするようなクレッシェンド、
そして何よりも職人魂を感じさせるロッシーニの喜劇オペラも大好物のひとつ。
「セヴィリアの理髪師」1幕フィナーレの六重唱なんか、景気づけに聴くときの必須ナンバーだ。
この「オリー伯爵」は初めて観るオペラ。
ドン・ファン的なオリー伯爵が、十字軍遠征で男たちが出払ってしまった城の留守を預かる女城主を相手に巻き起こすドタバタ好色コメディ。
人気のテノール、ファン・ディエゴ・フローレスの巡礼尼僧変装姿が宣伝写真となっていて、何だか楽しそうなオペラ、と期待して出かけた。
キャストは、そのファン・ディエゴ・フローレス演じるオリー伯爵のほか、女城主アデルにディアナ・ダムラウ(ソプラノ)、オリー伯爵の小姓イゾリエにジョイス・ディドナート(メゾ・ソプラノ)という配役。
指揮はマウリツィオ・ベニーニ。
演出はバートレット・シャー。
で、感想はというと・・・
確かにロッシーニの喜劇オペラは楽しいんだけど、
なんだか「不自由」さとか「窮屈」な感じがしてしまったんだなぁ・・・。
それは、この作品が、作曲者がフランスに行ってから、フランス語で作った作品だからかもしれない。パリの空気の中で、自分の音楽やイタリア・オペラに対する期待感が知らず知らずのうちに重圧になってしまっていたのかも。
ロッシーニは、オペラの世界ではもう仕事をやりつくして、音楽からほとばしり出てくるような「才気」が何故か感じられないのだ。
コメディア・デラルテが、フランスをはじめヨーロッパ各地でもてはやされ、変質していくうちに、本来のイタリア的なエネルギーが減衰していったことなんかを連想してしまった。
ロッシーニは、このあと「ウィリアム・テル」を作曲して、オペラ作曲家としてのキャリアを早々とリタイア。ひたすら美食の道を探求して、ドットーレのような体型になっていくのでした。
(このあたりは、勝手な想像。こんど、ロッシーニの伝記でもちゃんと読んでみよう)
バートレット・シャーの演出も、イマイチなんだなぁ。
18世紀の劇場での上演という設定にして、舞台裏のスタッフ仕事や古風な舞台機構なんかを見せながら「劇中劇」風に進行するのは面白いアイディアなんだけど、その劇構造が活かされていない。
背中の曲がった舞台監督の爺さんの大儀そうな演技、その助手の若造が効果音の風音を出すウィンドマシーンを回す時の不気味な表情、それらの「意味」がちっとも伝わってこない。
出演者たちの、舞台のオンとオフの動きにも「違い」が感じられない。
「オリー伯爵」の劇中劇はともかく、「舞台外」にドラマがないのだ。
観客は、謎の隠者や巡礼女に変装して出てくるファン・ディエゴ・フローレスや、華のある天然ぶりで女城主を演じるディアナ・ダムラウ、ズボン役のジョイス・ディドナートなど、主役たちの喜劇的な演技に短絡的に笑っていたが、演出としてはまだまだ改善の余地が多くあって、不完全燃焼だな。
そうそう、主役たちの動かし方にばかり演出作業に時間をとられたのか、合唱はほとんどほったらかしの状態。
特に、1幕フィナーレの六重唱・七重唱のところなんか、合唱の動きがもっとあったら躍動感が増したろうに、残念!
オリー伯爵と女城主アデル、小姓イゾリエの3人が繰り広げる暗闇でのベッドシーン。
大儀そうな舞台監督の爺さんが、ベッドの背を起こして客席からもよく見えるようにしてくれる。
真っ暗闇の寝室で、男女3人の手足が絡み合いながら繰り広げる三重唱に、観客も沸いていたが、これを見ながら歌舞伎の「だんまり」という様式がいかに洗練されていて素晴らしい手法であるかを再認識。「見えていない」ということが、歌舞伎ではとてもよく「見える」のである。
残念ながら、シャー演出では、「見えてない」のか「見えている」のか、もっと言えば、相手を認識して「いる」のか「いない」のかが、どうでもいいような所作なのである。
観客は短絡的に楽しんでいたけどね。
もう一言、文句を・・・。
フィナーレで、城の女たちと、巡礼の修道女に化けて侵入したオリー伯爵一派の男たちが、十字軍の帰還にあわてて別れを惜しんだ後、帰還した夫たちと何食わぬ顔で再会を祝していたが、おいおい、城の女たちは巡礼女に変装した男たちを「受け入れて」たんだっけ???前のシーンで、何も描いてなかったんじゃなかったっけ?
女のしたたかさを演出したいんだろうけど・・・・・
う~ん、ドラマとしての描き方が雑なんだよなぁ。
まぁ、音楽の制約とかもあるんだろうし、描きたいことが全部描けるとは限らないのがオペラの難しさなんだろうけど、こういう「説明不足だけど描いちゃいました」みたいな演出にはストレスを感じるなぁ。
と、いろいろと辛口の感想を並べたが、観客はそんな細かいところまで観ずに、短絡的に楽しんじゃうようで、妙にその辺の空気に毒づきたくなってしまった次第。
このプロダクションだって、合唱や助演の部分をもっと緻密に練り込めば、いい舞台になると思うよ。
銀座四丁目の交差点から歌舞伎座方面に晴海通りを進み、三原橋交差点手前をちょいと左に入ったところにある。
狭い入り口脇に「麺打ち作業場」があり、
おじさんが麺を幾重にも伸ばしながら黙々と「打って」いる。
食べるところは2階。
おしゃれな銀座界隈にありながら、庶民的でまっとうな空間。
ここの麺は、手打ちだけあって、麺の太さにムラがあり、その食感が楽しいのだ。
ところがこの「ヤンヤン」、今週末で閉店してしまうという情報をネット上で発見!
なんでも、震災の影響で、中国人の職人さんが帰国してしまうからとか。
入り口で麺打ってたおじさんか?
こんなところにも震災の影響が・・・・。
そこでさっそく、「ヤンヤン」食べ納めに出発。
大好物の、胡麻をきかせた坦々麺・・・・
汗をかきかき味わって、お店にお別れ。
で、出かけたのが・・・
■METライブビューイング「オリー伯爵」
[2011年5月10日(火) 東劇]
早口言葉のような小気味良いパッセージ、
わくわくするようなクレッシェンド、
そして何よりも職人魂を感じさせるロッシーニの喜劇オペラも大好物のひとつ。
「セヴィリアの理髪師」1幕フィナーレの六重唱なんか、景気づけに聴くときの必須ナンバーだ。
この「オリー伯爵」は初めて観るオペラ。
ドン・ファン的なオリー伯爵が、十字軍遠征で男たちが出払ってしまった城の留守を預かる女城主を相手に巻き起こすドタバタ好色コメディ。
人気のテノール、ファン・ディエゴ・フローレスの巡礼尼僧変装姿が宣伝写真となっていて、何だか楽しそうなオペラ、と期待して出かけた。
キャストは、そのファン・ディエゴ・フローレス演じるオリー伯爵のほか、女城主アデルにディアナ・ダムラウ(ソプラノ)、オリー伯爵の小姓イゾリエにジョイス・ディドナート(メゾ・ソプラノ)という配役。
指揮はマウリツィオ・ベニーニ。
演出はバートレット・シャー。
で、感想はというと・・・
確かにロッシーニの喜劇オペラは楽しいんだけど、
なんだか「不自由」さとか「窮屈」な感じがしてしまったんだなぁ・・・。
それは、この作品が、作曲者がフランスに行ってから、フランス語で作った作品だからかもしれない。パリの空気の中で、自分の音楽やイタリア・オペラに対する期待感が知らず知らずのうちに重圧になってしまっていたのかも。
ロッシーニは、オペラの世界ではもう仕事をやりつくして、音楽からほとばしり出てくるような「才気」が何故か感じられないのだ。
コメディア・デラルテが、フランスをはじめヨーロッパ各地でもてはやされ、変質していくうちに、本来のイタリア的なエネルギーが減衰していったことなんかを連想してしまった。
ロッシーニは、このあと「ウィリアム・テル」を作曲して、オペラ作曲家としてのキャリアを早々とリタイア。ひたすら美食の道を探求して、ドットーレのような体型になっていくのでした。
(このあたりは、勝手な想像。こんど、ロッシーニの伝記でもちゃんと読んでみよう)
バートレット・シャーの演出も、イマイチなんだなぁ。
18世紀の劇場での上演という設定にして、舞台裏のスタッフ仕事や古風な舞台機構なんかを見せながら「劇中劇」風に進行するのは面白いアイディアなんだけど、その劇構造が活かされていない。
背中の曲がった舞台監督の爺さんの大儀そうな演技、その助手の若造が効果音の風音を出すウィンドマシーンを回す時の不気味な表情、それらの「意味」がちっとも伝わってこない。
出演者たちの、舞台のオンとオフの動きにも「違い」が感じられない。
「オリー伯爵」の劇中劇はともかく、「舞台外」にドラマがないのだ。
観客は、謎の隠者や巡礼女に変装して出てくるファン・ディエゴ・フローレスや、華のある天然ぶりで女城主を演じるディアナ・ダムラウ、ズボン役のジョイス・ディドナートなど、主役たちの喜劇的な演技に短絡的に笑っていたが、演出としてはまだまだ改善の余地が多くあって、不完全燃焼だな。
そうそう、主役たちの動かし方にばかり演出作業に時間をとられたのか、合唱はほとんどほったらかしの状態。
特に、1幕フィナーレの六重唱・七重唱のところなんか、合唱の動きがもっとあったら躍動感が増したろうに、残念!
オリー伯爵と女城主アデル、小姓イゾリエの3人が繰り広げる暗闇でのベッドシーン。
大儀そうな舞台監督の爺さんが、ベッドの背を起こして客席からもよく見えるようにしてくれる。
真っ暗闇の寝室で、男女3人の手足が絡み合いながら繰り広げる三重唱に、観客も沸いていたが、これを見ながら歌舞伎の「だんまり」という様式がいかに洗練されていて素晴らしい手法であるかを再認識。「見えていない」ということが、歌舞伎ではとてもよく「見える」のである。
残念ながら、シャー演出では、「見えてない」のか「見えている」のか、もっと言えば、相手を認識して「いる」のか「いない」のかが、どうでもいいような所作なのである。
観客は短絡的に楽しんでいたけどね。
もう一言、文句を・・・。
フィナーレで、城の女たちと、巡礼の修道女に化けて侵入したオリー伯爵一派の男たちが、十字軍の帰還にあわてて別れを惜しんだ後、帰還した夫たちと何食わぬ顔で再会を祝していたが、おいおい、城の女たちは巡礼女に変装した男たちを「受け入れて」たんだっけ???前のシーンで、何も描いてなかったんじゃなかったっけ?
女のしたたかさを演出したいんだろうけど・・・・・
う~ん、ドラマとしての描き方が雑なんだよなぁ。
まぁ、音楽の制約とかもあるんだろうし、描きたいことが全部描けるとは限らないのがオペラの難しさなんだろうけど、こういう「説明不足だけど描いちゃいました」みたいな演出にはストレスを感じるなぁ。
と、いろいろと辛口の感想を並べたが、観客はそんな細かいところまで観ずに、短絡的に楽しんじゃうようで、妙にその辺の空気に毒づきたくなってしまった次第。
このプロダクションだって、合唱や助演の部分をもっと緻密に練り込めば、いい舞台になると思うよ。
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