2011年4月28日木曜日

ヘリコプターで朗読を観る

頭上をヘリコプターが飛んでいると、
「何かあったんじゃないだろうか?」
・・・と不安に駆られる。

事件とか、事故とか、災害とか・・・。

飛んでいるヘリが、民間のものか、自衛隊とか在日米軍のものか。

民間のものなら、どこかの交通事故を取材にいく途中だったり、
休日の行楽地の取材なんていうこともある。

カーキ色のヘリだと、
どこかの国の軍事的挑発行為なんかをつい想像してしまう。

この間の大地震のときは、東京駅の丸の内口にいたが、
上空をすぐに報道のヘリコプターが飛びはじめ、
こりゃあ大変な災害だと直感した。

平常時には、あまりヘリコプターの出番はないもんなぁ。

というわけで、ヘリコプター・ネタで話を始めたが、
本日は「災害」でも「事件」でもなく、
五反田にある「アトリエヘリコプター」という小さなスペースに出かけた。

■KAKUTA Sound Play Series「朗読の夜」#6
「グラデーションの夜」~桃色の夜
[2011年4月28日(木) アトリエヘリコプター]

KAKUTAというのは、役者で演出家の桑原裕子さんを中心とした「劇団」。

彼女の創りだす芝居は、登場人物に「実在感」がある。
劇中の人間に「血」が通っているばかりでなく、
「肌合い」や「体臭」みたいなものまでもが感じられるのだ。

今回はいわゆる「朗読劇」だが、
単に本を読むだけでなく、
「語り手」と「演じ手」にわかれるという独自のスタイルで上演するという。
なんだか歌舞伎の義太夫物みたいだ。

歌とピアノとのコラボもあるというので、
どんな舞台になるのか興味と期待で出かけることにした。

読まれる短編小説は、
田辺聖子「いま何時?」
角田光代「わか葉の恋」
三浦しおん「春太の毎日」
の3本。

角田作品は図書館で読んだが、他の2本は未読。

その3作をつなぐ基礎構造として、「グラデーションの夜」というオリジナルの世界がある。
古本屋の女性店主が、ふらりと旅に出て、
どこぞ町の小さな宿屋で時間を過ごしているという設定だ。

その古本屋の店主や宿屋の女主人が本を読むと、作品の中の世界が眼前で演じられていく。


文学作品が立体的に演劇化するという仕掛け。まあ、セリフの多い、演劇になりやすい作品を題材に選んでいるせいもあるが、現代の演劇の在り方・作り方として、いい方法論だ。


題材の3作は、どれも「片想い」や「大人の恋」を描いた作品。それを、歌とキーボードの優しい音楽が、時にはBGMのように、時にはドラマを見守る天使のように包んでいく。


春の陽気と相俟って、心穏やかに観ていられる、ほのぼのとするような演劇的時間でした。


ひとつだけ、欲を言えば、漢字の読み方に誤り(玄武岩は「げんぶいわ」じゃなくて「げんぶがん」でしょう・・・)があったり、イントネーションに明らかにおかしな部分があったりして、聴いている方が一瞬「アレッ?」とストレスを感じてしまう瞬間があったのが残念。「朗読」という表現をキーワードにして上演する以上、やっぱりこういう部分も綿密に演出して、言葉に込められたメッセージや文化をきちんと伝えていく姿勢が大事だと思うよ。

2011年4月27日水曜日

皇帝は裸になれたか?

■ロジャー・ノリントン指揮、N響定期公演
[2011年4月27日(水) サントリーホール]

先日の面白くて楽しい(そして素晴らしい)「マーラー体験」に続き、
本日のプログラムはベートーヴェン!

「プロメテウスの創造物」序曲、交響曲第2番、
そして休憩後に、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
というもの。

数年前のモーツァルト同様、ロジャーおじさん、いろいろと仕掛けを施して面白くパフォーマンスしてくれるんじゃないかと、期待に胸ふくらませて出かけた。

そして、前半は見事にノリントン・マジックが的中。
小気味良いアクセント、旋律が浮かびあがってっくるようなフレージングの妙。
贅肉をそぎ落とし、「生まれたばかりの姿」のような、活き活きとしたベートーヴェンの音楽が披露された。

で、問題は後半の「皇帝」。
泣く子も黙るピアノ・コンチェルトの超名曲。
やっぱり、ピアノはベートーヴェンの時代から進化を遂げて、基本的にはロマンチックな楽器になってしまったんじゃなかろうか。ピアノの機能を十二分に発揮しようとすればするほど、オーケストラのノンビブラート奏法との世界観の違いが目立ってしまうようだ。
もっとも、これはピアニストの志向性にもよるんだろうが、今回のソリスト(ベルリン生まれの若手、マルティン・ヘルムヒェン)は、現代のピアニズムの王道を歩む人らしく、ロジャーおじさんとのノンビブラート実験には、あまり関心がないような「我が道を行く」音楽づくりだった。

もちろん、演奏が悪かったわけではない。
堂々とした(いや本当に堂々とした)立派な皇帝でしたよ。
ただ、ロジャーおじさん率いるオケとピアノとの化学反応を期待していたのに、「生まれたばかり」の皇帝のお姿が拝めなかったというだけ。

演奏後の指揮者とソリストは、妙に上機嫌だったけれど、前半の2曲ほどには面白くなかったなぁ。

それにしても、ロジャー・ノリントンという指揮者、見ていて本当に楽しいパフォーマンスをする。
来年もN響を振りに来るというから、今から楽しみだ。

2011年4月25日月曜日

カンブルランに元気をもらった!

■シルヴァン・カンブルラン指揮、読売日響
[2011年4月25日(月) サントリーホール]

「元気」のおすそわけにあやかりたくて、数日前にチケットを予約した。
カンブルランの指揮する読響の“チェコ名曲プログラム”だ。

なにせカンブルランという人、読響の常任指揮者就任披露の去年の春は、アイスランドの火山噴火。
そして今回は大震災。
とかく天災の影響を受ける人だが、その都度「万難を排して」来日してくれる根っからのプロの職人だ。
こういう人の舞台表現には、こちらも進んで触れにいきたくなる。

さてプログラムは、大好きなチェコ特集。
モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」にはじまり、ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」、スメタナの「モルダウ」、そして再びヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。

ヤナーチェク好きにはたまりませんなぁ!

冒頭には、メシアンの「忘れられた捧げもの」から第3曲『聖体』が献奏された。
弦楽合奏の静謐な響きの中に、「祈り」とともに「希望」が感じられる音楽。
メシアンのスペシャリストとしても知られるカンブルランらしい選曲だ。

さて、オケが一度退場して、改めて登場。
本編のはじまりはじまり。

モーツァルトは、ひとつひとつのフレーズの「息」を大切にするような演奏。
細かいパッセージの綻びなんかよりも、「流れ」を重視するかのよう。
その流れの中に、くすんだ響きなんかが感じられて、楽しめた。

お次は「タラス・ブーリバ」。
ヤナーチェク節が満載で大好きな曲だが、滅多に実演で接する機会はない。
チェコとかモラヴィアとかの民族色よりも、20世紀の音楽としての響きの新鮮さに着目しているような演奏。フランス人の指揮者が日本のオケを振っているのだから、妙に東欧的な民族色を強調するよりも、こういった解釈もあるのかと納得。かえって拍子の変わり目なんかがわかって、指揮姿を見ながら面白く聴けた。

休憩後の「モルダウ」は、アルプスから流れ出る急流に沿って氷河特急で下るような演奏。
いやはや「速い」!
水源の「水のしずく」からして、いきなりの急流。
「農民の婚礼の踊り」も「川面に映る月の光」も「古城」も、特急列車の車窓越しにどんどん吹っ飛んでいく。「聖ヨハネの急流」なんか、まるで大瀑布だよ。
こんなに早い「モルダウ」は正直言って初めての経験。
でも、なぜか楽しめた。
「名曲」の特権だね。

そして、フィナーレは「シンフォニエッタ」。
金管バンダの特異なファンファーレがさく裂して、ヤナーチェク節と明るい響きがホール内を躍動。

マエストロ・カンブルランはカーテンコールの出入りも小走りぎみにきびきびとしていて、とにかくコンサート全体がいきいきとした雰囲気になる。
それは、ロビーにいるオーケストラ・スタッフの表情やお客の心にも伝染して、会場全体が明るくなり活力が漲るようだ。
この人、今のこの時期に理想的なキャラですよ。
いやはや、期待通りに「元気」をいただきました。
Bravo!

2011年4月23日土曜日

ノリントンのマーラー

■ロジャー・ノリントン指揮、N響定期公演
[2011年4月23日(土) NHKホール]

東京では震災による重い空気も少しずつ平常の戻り、
オーケストラの演奏会も行われるようになってきた。

4月のN響定期の指揮は、ロジャー・ノリントン。
この人が指揮をすると、音楽が「生まれたて」のように聞こえてきて、実に楽しい。

数年前の客演で、モーツァルトの39番の交響曲を指揮したときなんか、
「ほら、ここのフレーズ、こんな響きです。面白いでしょ?」
とでも言っているような嬉々とした表情で指揮していたのが印象的。

そして、今回はなんとマーラー!
交響曲第1番をメインに、前半は「花の章」と「さすらう若者の歌」。

どんなマーラーを聴かせてくれるのか?
会場がNHKホールというのが気にくわないが、まあ自由席1500円也で聴けるんだから贅沢は言わない言わない。

客席に入って、舞台を見て驚いた。
オケの後方に、可動式の反響板パネルが5枚立てられている。
これで客席への音の「飛び」を良くしようというのだろうか。
会場全体の空間の広さはいかんともしがたいが、少しは音響上の改善になるのかも。親会社の放送局との関係で、当分はこの会場をメインに使わざるを得ないオケなんだから、いろいろと工夫を施して、聴衆が音楽を感動できる環境を模索してください。

さてさて、ノリントンのマーラー。
これが実に素晴らしかった。

ノンビブラート奏法を徹底させるだけでなく、各パートのバランスが絶妙で、フォルテッシモの音の塊の中にちゃんと内声部が聞こえるし、フレーズが湧き上がるように醸し出されていく。
どちらかというと、室内楽的ともいえる精緻なマーラーだが、「神経質」とか「内向的」とはではなく、しっかりと盛り上がるところは盛り上がる。

もしかして、マーラーはこんな響きや音楽の流れを思い描いて、この曲を作曲したんじゃないだろうか。

モーツァルトのときはいろいろと「小細工」を施して面白く造形していたノリントン、マーラーの場合は、作曲家自身のイメージがはっきりしていたのか、楽譜にきちんと様々な指示が書き込んである。だから、あまり小細工らしい小細工はしていない。むしろ、マーラーが音符として残した「響き」や「フレーズ」をオーケストラという「楽器」を使ってきちんと具体化することという、「プロの仕事」に徹していた。

それにしても、マーラーの曲に限らず、指揮台でオケの音楽に没入して大暴れしている指揮者を見かけるが、あんなのは「二流」だね。

とにもかくにも、ノリントンによる、面白く楽しい「マーラー体験」だった。

次回は来週、サントリーホールでのベートーヴェン・プロ。
こちらも今から楽しみだ。

2011年4月21日木曜日

ブログ再開

遅ればせながら・・・

震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。


2月の末から、このブログの更新を「怠けて」いたところに、
あの大震災。
テレビの画面を通して次から次へと伝えられる映像に、
正直なところ言葉を失っていた。

そして震災から40日あまりが経過。
このブログを「再開」するにあたり、
あの震災にふれないわけにはいかないと考えていた。

音楽だの演劇だのといった「舞台芸術」の世界に身をおくものとして、
これからは、
表現すること、表現されたもの「意味」を
いままで以上に深く考えながら活動せざるを得ないのではないだろうか。

正直なところ、
昨今の舞台芸術の世界は、
すべてではないにせよ、
甘く、社会性に欠けていたように思う。

そして今回、
あんな悲惨な状況を目の当たりにして、
「甘えた」表現は、もう許されないのではないだろうか。

これから接する舞台芸術に、
もしも甘えが垣間見えたとしたら、
それを指摘していきたい。
(うまくできるかどうかはわからないが・・・)