2011年12月27日火曜日

第九の名演に感動!

■スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、N響「第九」
[2011年12月27日(火) サントリーホール]

いろいろと大変なことが多かった2011年。
その締めくくりは、やはり「第九」。

今年はスクロヴァチェフスキ御大がN響の第九を指揮するというので、
早々にチケットを予約した次第。

いやぁ、それにしても見事な第九だった!
音が、音楽が、ちっとも弛緩しない。
緊張感にあふれ、しかも雄渾。
音楽の流れ、フレーズ、歌を大切にしながら、滔々と流れていく。
そして、大地の底から湧きたつような豪放な音のうねり。

聴いていて、いつまでも音楽が続いてほしい、終わらないで・・・
と胸が熱くなるような体験だった。

御歳88にして、このような音楽を作りだせるマエストロにあらためて感服。

独唱4人(と3名の打楽器奏者)は、4楽章が始まって、「この音じゃない!これでもない!これだ、これこれ」というくだりが一段落したところで登場。
対向配置にセッティングされたコントラバスの後ろ、つまり下手舞台奥という、これまで経験したことのない位置。こうすることでオケがオペラのピットのようになり、独唱と合唱が一体となっておさまりがいい。楽章間の独唱陣の出によって音楽が中断することもなく、なかなかいい演出だ。

サントリーホールのP席エリアいっぱいに陣取った合唱は、例年のように国立音楽大学。
女声が圧倒的に多く、男声の倍以上。
音楽大学で声楽を専攻する学生の男女比を象徴しているのかな。
でも、よくトレーニングされていて、若々しくも立派な合唱でした。

客席は大喝采。
合唱団が退場する間も拍手が鳴りやまず、
スクロヴァチェスフキ御大のソロ・カーテンコールでようやく収まった。

久しぶりに接した「第九」の素晴らしい演奏に大満足。
これで今年のコンサート鑑賞もオシマイ。

来るべき2012年が、素晴らしい年となりますように!

2011年12月14日水曜日

求めていたのはもっと高次元のパフォーマンス

デュトワが指揮する12月のN響定期の3種類のプログラムの中で、
最もオーケストラの本領が試されるのが、このBプロの曲目なのでは。
で、楽しみにして出かけた・・・。

■シャルル・デュトワ指揮、N響第1717回定期公演
[2011年12月14日(水) サントリーホール]

ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
(ピアノ独奏:ニコライ・ルガンスキー)
バルトーク:オーケストラのための協奏曲

歴史のうねりの中で翻弄された、
ドイツ、ロシア、ハンガリーの作曲家の代表作。
いずれも、アメリカのオーケストラで初演されたところが面白い。
(ヒンデミットはニューヨーク・フィル、プロコフィエフはシカゴ響、バルトークはボストン響)
だから、作曲家の母国の国民性・民族性よりも、
作品のもつインターナショナルな普遍性を意識しながら鑑賞することにした。

それにしても、こういうプログラムだと、
オーケストラの「機能性」が如実にわかってしまう。
N響は・・・
悪くはないんだけど、各パート、というか楽員一人一人の音楽的「ベクトル」みたいなものがもう少し欲しいんだなぁ。
全体としては良くまとまっているんだけど、
こういうプログラムだと、まとまり過ぎて面白みに欠けるのだ。
自主的にまとまってしまうよりも、
各人・各パートの発信力がもっと欲しいんだなぁ・・・。

パフォーマンス不足で、ゾクゾクするような躍動感ある「音楽」を体感できなかったのが残念!

デュトワも、音楽監督時代とは違って今は「客演」の身分だから、そんなにオケをいじくらないし・・・。なんだか、「フォーメーションばかり気にしてゴールを決められないサッカーの外国人監督」みたいに見えてしまった・・・。

客席は沸いていたけれど、
デュトワとN響だったら、
もっと高い次元の演奏を期待したいところだ。

2011年12月13日火曜日

METライブビューイング「サティアグラハ」

フィリップ・グラスのオペラ「サティアグラハ」を観た。

主人公はガンジー。
彼が南アフリカで人種差別に直面し、「非暴力・非服従」による抵抗運動を繰り広げていく様子を描いている。

歌詞はサンスクリット語によるヒンドゥーの聖典「バガヴァッド・ギーター」の言葉。
歌詞と舞台上の出来事には、なんと!「関連性が無い」
「意味にとらわれず音として体感される歌詞と、歌詞の影響を受けずに語られる物語」というのが作曲家グラスの意図らしいが、解ったような解らないような・・・。

でも、音楽が始まってみると、彼独特のミニマル・ミュージックが温浴効果のようにジワ~ッと体にしみ込んできて心地よい。
終わってみれば、執拗に繰り返されていた「音楽」を知らず知らずに口ずさむ自分がいた。
オペラやコンサートが終わって、そこで体験した音楽が自然と口をついて出てくる、というのは、まさしく「音楽が素晴らしかった」ということに他ならないのでは?

出演者の中では、主役のリチャード・クロフトが音楽の中でガンジーになりきっていて素晴らしかったのは言うまでもないが、Miss Schlesenという役を歌ったソプラノのラシェル・ダーキンRachelle Durkinの存在感と歌唱が見事!この人、何年か前の「セヴィリアの理髪師」のライブビューイングで観た記憶があり、ロッシーニのブッファでの異彩ぶりが気に入っていたのだが、フィリップ・グラスのミニマル・ミュージックに乗った重唱やソロでも充分に強烈な個性を発揮!Brava!

新聞紙を使った巨大な操り人形やフライング、シルエットなどで、このオペラを視覚的に面白く仕立ててくれた助演12人の演劇カンパニーがBravi!
このオペラの各幕を象徴するもうひとつの歴史的人物たち(トルストイ、タゴール、キング牧師)を黙役で視覚化していたのも彼ら。
この思想的な題材のオペラが、助演グループの動きによってどれだけ「スペクタクル」な「エンターテイメント」に仕上がっていたことか。

そして、フィリップ・グラスの音楽をピットの中でよく「落っこちもせず」演奏してのけたオーケストラにも拍手!やっぱり音楽は「生に限る!」

MCは、「指輪」でアルベルヒを演じているエリック・オーウェンス。
ライブビューイングMCデビューなんじゃないかな?
バス・バリトンの心地よい声で、誠実にきちんとした進行で好感が持てました。
こちらもBravo!

2011年11月28日月曜日

METライブビューイング「ジークフリート」

ロベール・ルパージュ演出によるMETの指輪チクルス。
「ジークフリート」を見る。

この新演出シリーズの特徴である巨大な舞台装置にも、
ある意味、慣れた。
この「ジークフリート」は、
慣れた分だけ、マシンに圧倒されることなく、
恐れを知らぬ青年ジークフリートのドラマに集中することができた。

ジークフリート役は、ギャリー・レイマンが病気で降板し、
テキサス生まれのジェイ・ハンター・モリスが大抜擢されてデビュー。
若々しくて、声に張りと力強さがあり、森の中で鍛冶屋のミーメに男手一つで育てられた青年ジークフリートの若さと荒々しさ、申し分なし。
ワーグナー歌手っていうと、とかくオッサンやオバサンばかりで、
見た目の「若さ」や「体の張り具合」を「変換」しながら鑑賞しないと、
ドラマがわからなくなってしまう場合が多いが、
このテキサス出の若手テノールは、外見も声の艶もBravo!

見た目の点では、
ジークフリートが生まれた頃から「18年間」も炎の山で眠りについていたデボラ・ヴォイト演じるブリュンヒルデとの対比も納得。
ジークフリートにとっては、18歳年上の「年増女」だもんね。
大人の女とティーンエイジャーの若者との声の競演も見事でした。

ミーメを演じ歌ったゲルハルド・ジーゲルにも拍手。
粗暴なジークフリートに手こずりながらの芝居が、この神話劇に何とも人間臭く面白い家族ドラマの要素を加えて、アクセントになっていた。

森の小鳥を舞台裏で歌っていたのは、
「ドン・ジョヴァンニ」でツェルリーナを演じていたモイツァ・エルドマン。
男くさい神話劇の中で、可憐なソプラノの声が一服の清涼剤。

それにしても、こんなに長大で強力な音楽劇にほとんど出ずっぱりで歌いきるジークフリート歌手というのは、本当に超人的としか言いようがない。
体の内部の筋肉はどんなになっているのだろう・・・。

指揮は、ファビオ・ルイージ。
緊張感ある音楽づくりでお見事でした!

2011年11月25日金曜日

METライブビューイング「ドン・ジョヴァンニ」

METライブビューイング2011-2012シーズンが始まっている。
第1作目、ネトレプコ主演の「アンナ・ボレーナ」は日程の都合がつかずパス。
そのうち、アンコール上映かNHK-BSでの放映があるだろう・・・。

というわけで、この「ドン・ジョヴァンニ」で個人的にはシーズン開幕。

この世は醜く汚いけれど・・・ワクワクしてちっとも飽きない。
天国は穏やかで安らかかもしれないけれど・・・退屈。
ドン・ジョヴァンニもモーツァルトも、そんなふうに感じてたんじゃないかな。

ドンナ・アンナ&ドン・オッターヴィオ
一年喪に服してからと結婚したとしても、
善良なだけのドン・オッターヴィオの暮らしに、
ドンナ・アンナが悦びを見出せるだろうか・・・退屈だよ。

ドンナ・エルヴィーラ
修道院に入るって・・・?それしかないよね。
最後の男と期待したドン・ジョヴァンニをモノにできなかったんだから。

ツェルリーナ&マゼット
労働に明け暮れる農村での生活。
子供をたくさん作って、純朴に暮らすのが一番かもね。

レポレッロ
ドン・ジョヴァンニには腹が立つけれど、
彼以上に刺激的で魅力にあふれた主人なんか、
どの酒場を探したって見つからないよ。

ラストの六重唱を聴いていると、いつもそんなことを感じてしまう。
それまでも波瀾万丈で破天荒なドラマに比べて、
宗教曲みたいだし、演技の仕様もないもんね。
ただ、歌い終わって舞台奥に向かって退場する幕切れは、
6人6様「別の道」を歩んでほしかったな。

順序が逆になったが、
ドン・ジョヴァンニの地獄落ち。
本火とスモークを多用して派手な演出。
このくらい大がかりにやってくれないと納得しないよな。
さすがMET。
大いに納得させられる演出効果でした。

出演者では・・・

ドン・ジョヴァンニのマリウシュ・クヴィエチェン、
動きが軽く、細かい演技も見事。
見た目にも色気と悪の要素がバランス良く格好いい。
Bravo!

ドンナ・アンナは、マリーナ・レベッカ。
ドンナ・エルヴィーラは、バルバラ・フリットリ。
ツァルリーナは、モイツァ・エルドマン。
三者三様、年齢や境遇、品格の違いが出ていて納得。
ドンナ・アンナとドンナ・エルヴィーラなんか、
どっちがどっちだかわからなくなる時があるもんね。
ツェルリーナは、上流階級に「見えない」ところがいい。

レポレッロのルカ・ピザローニ、
体が大きく、生活力ありそう。
ドン・ジョヴァンニとの丁々発止の演技が見事。Bravo!

騎士長のステファン・コツァン、
押し出し堂々としてBravo!

マゼットのジョシュア・ブルームは、
もう少し田舎っぽいほうが良かったかな。

ドン・オッターヴィオのラモン・ヴァルガス、
「人はいいんだけれど役に立たない」情けなさ?がBravo!

演出はマイケル・グランデージによる新演出。
変な読み替えもなくオーソドックスな舞台づくりだが、
人物の造形が丁寧で見ていてストレスや違和感を感じないのがいい。
METらしい見事な舞台だった。

指揮はファビオ・ルイージ。
NYに新居を構えたそうで、いよいよMETが本拠地になるようだ。

2011年11月16日水曜日

代役でガサガサのドヴォルザーク

■ネーメ・ヤルヴィ指揮、N響第1713回定期
[2011年11月16日(水) サントリーホール]

いやはや、この演奏会・・・
イルジ・コウトの指揮でお国物のドヴォルザークが聴けるとあって楽しみにしていたのでが、
「怪我の治療」とかで来日キャンセル。
(本当か???プラハの町なかには、コウト指揮の演奏会のポスターが貼ってあったぞ・・・)

・・・で、代役に来日したのが、ネーメ・ヤルヴィ。
ヤリヴィ家の親爺さんだ。

プログラムは、そのまんま引き継いで、
  ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集op.46から第1番
  ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
  ドヴォルザーク:交響曲第7番

ソリストは、セルゲ・ツィンマーマン。
ゲスト・コンマスは、コンセルトヘボウ管弦楽団のヴェスコ・エシュケナージ。

・・・で、感想はというと・・・
「雑!」のひとこと。

早めのテンポで音楽の推進力を演出したかったのかもしれないが、
ドヴォルザークにしてもベートーヴェンにしても、
「歌心」ってものがちゃんとあるのだよ。
それを無視するかのように、ただ性急に音楽を煽りたてるばかりなもんで、
響きもフレーズもガサガサとささくれ立った感じ。
聴いていて腹が立ってきてしまった。

そもそもN響には「正指揮者」だって「副指揮者」だってちゃんといるではないか。
定期公演に来日できなくなった指揮者をカバーするって発想はないのかね?
円熟の外山雄三マエストロなんか定期からすっかりご無沙汰だし、
若き山田和樹マエストロの定期デヴューなら、さぞ面白かっただろうに・・・。

こういうときのN響の指揮者の人選には、疑問符がいくつあっても足りないくらいだ。

2011年10月26日水曜日

アンドレ・プレヴィンの魔術

とにかく、「見た目」と「音楽」のギャップが大きなマエストロだ。
アンドレ・プレヴィンのこと。
今回、ステージに登場した姿を見てびっくり。
なんと歩行器につかまりながらの登場。
しかし、いざ音楽が始まってみると、そのふくよかな響きや流れに瞬時に引き込まれてしまう。

■アンドレ・プレヴィン指揮、N響第1711回定期公演
[2011年10月26日(水) サントリーホール]

曲目は・・・
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番
モーツァルト:交響曲第36番「リンツ」
R.シュトラウス:「ばらの騎士」組曲

特別なことは何もしていないように見えるのに、ホールが音楽の悦びで満ち溢れる。
モーツァルトとリヒャルト・シュトラウスでは、幸福感に満ちた音楽の時間が体験できた。

N響もふくよかな響きを出して好演していたが、フレーズの微妙な部分で、もう少し音楽を大切にアンサンブルを合わせてくれたらなぁ・・・と思う部分が何箇所かあったのが残念。

ショスタコーヴィチのソリストは、韓国出身のチェ・イェウンYe-Eun, Choi。
深紅のドレスで登場し、堂々たる音楽で、この大曲を面白く楽しませてくれた。Brava!

2011年10月25日火曜日

旅のグルメ【ウィーン】

旅のグルメ、締めくくりはウィーン。

美術館見学の前後に、ウィーン風のコーヒーを堪能。

手前はホイップクリームをのせた「アインシュペーナー」。向こうはカプチーノみたいな「メランジュ」。
(クンストハイス・ウィーンのカフェで)

いわゆるブラックコーヒー「ブラウナー」と、リンゴパイ「アプフェルシュトゥルーデル」。
(美術史博物館のカフェで)
 オペラの帰りには、オペラ座近くのレストランで軽食とビール。
ビール2杯とこれ(ソーセージとテリーヌ)で、チップ含めて20ユーロ。
当然、パンも出た。
東京で、居酒屋なんかで「軽く一杯」飲るより、考えようによっては、はるかに安い。

下は、グリンツィングのホイリゲで食べた、じゃがいもとマッシュルームのグリル(手前)。
ワイングラスの向こうは、ザワークラウト(いわゆるキャベツの酢漬け)。
自然発酵した酸味と、燻製のようなスモーク風味が独特で、大好物になりました。
もちろん、白ワインの「アテ」にぴったり!

そして、ウィーンの町なかにちょくちょく見かけるシーフードのチェーン店「ノルトゼーNordsee」で食べた白身魚のフライ。向こうは、海老と野菜のサラダ。
出来てる料理を見て注文できるので、至極便利。遅めのランチ時間だったが、近所のOLやビジネスマンなんかが一人でさくっと食事していて、結構賑わっていました。

2011年10月24日月曜日

旅のグルメ【チェスキー・クルムロフ】

世界遺産チェスキー・クルムロフは、ヴルダヴァ川が蛇行してできた地形を利用して、城と町ができている。


旧市街から城へ向かう橋には十字架のキリスト像が。
訪れた日はかなり寒く小雨模様だったが、ヴルダヴァではカヌーの練習なんかしていて、見ているこちらが震えあがってしまった。


ヴルダヴァ上流の勢いある流れを眺めていたら、この地では肉ではなく魚料理を味わいたくなった。
川マスのグリル。
付け合わせの野菜のグリルも素朴で彩豊か。
ボヘミア産のスパークリングワインや白ワインと良く合い、美味しくいただきました。

2011年10月23日日曜日

旅のグルメ【ムニェルニーク】

プラハ滞在中のとある一日。
エクスカーションで出かけたのが、プラハの北西にあるムニェルニークMelnik。

プラハ中央駅Praha hlavni nadraziから快速で40分ほどのヴジェタツィVsetatyで乗り換え、7~8分。
プラハから1時間ほどでいける小さな町です。

ここは、ボヘミア・ワインの町として知られ、川に面した高台にそびえるロブコヴィッツ家の城がワイナリー。
右側の蔦のからまる建物がロブコヴィッツ家の城でワイナリー。
教会の塔と城の間を進んだところにある展望台からは、ヴルダヴァ川とラーベ川、それにヴルダヴァ運河の3つの流れが合流し・・・
左から、ラーベ川、ヴルダヴァ川、そして運河。
ドイツに向かって流れを進めていく雄大な眺めが楽しめる。

そう、ここはスメタナの名曲、連作交響詩「わが祖国」の第2曲「ヴルダヴァ(モルダウ)」の最後の部分で、「ヴルタヴァは次第に視界から遠ざかり、やがてラーベ川へと注ぐ・・・」と描写されているポイントでもあるのです。


右上がドイツの方・・・
川に面した急斜面には、ブドウ畑が広がっています。
左下の中庭のある館がロブコヴィッツ家の城。
ワイナリーを見学し、代表的な「ルドミラ」という銘柄の赤ワインを飲んだあと、城の近くのレストランのテラス席で再びムニェルニーク・ワインを飲みながらランチ。
牛肉の塊を柔らかくボイルしたものに、マスタードのきいた濃厚なソースが。
そしてホイップクリームとイチゴジャムも・・・。
もちろん、付け合わせは定番クネドリーキ。

奥は、ウィーン風で、巨大なシュニッツェル2枚!

すっかりゴキゲンなワイナリー見学の小旅行でした。

2011年10月22日土曜日

旅のグルメ【プラハ】

旅の愉しみといえば、「食」。

今回のプラハ&ウィーン旅行では、高級レストラン訪問とかご当地グルメ食べ歩きとかはあえてしなかったが、それでも印象に残った「食」をご紹介。

まずは、プラハ編・・・

チェコ料理といえば、グラーシュとクネドリーキ。
前者は、平たく言えばビーフシチュー。
後者は、付け合わせのダンプリング。まぁ、チェコ風蒸しパンみたいなものですな。
上の写真は、プラハ到着の晩に、共和国広場Namesti Republikyに面したレストランのテラスで食べたもの。クネドリーキに香草が入っていて、グラーシュともども洗練されたお味だったのにビックリ!

そしてこれは、「ドン・ジョヴァンニ」を観たスタヴォフスケー劇場近くのセルフサービス・レストラン「ハヴェルスカー・コルナHavelska Koruna」のグラーシュとクネドリーキ。とにかく超安かっただけに、こっちの方が一般的な見た目とお味。

下は、カレル橋を渡って、小腹が空いたから軽く昼食でも・・・と入ったマラー・ストラナ広場のカフェのハンバーガー。
小腹どころか、これでお腹一杯!の巨大チェコ風ハンバーガー。
チェコ・ビールと良く合う素朴な味でした。

2011年10月21日金曜日

コペンハーゲン

プラハ&ウィーン旅行には、ちょっとしたオマケが・・・。

今回、スカンジナビア航空を利用したので、フライトはコペンハーゲン乗り継ぎ。ウィーンからコペンハーゲンまでは、スター・アライアンスでコードシェアしているオーストリア航空の早朝便。コペンハーゲンでは、約6時間の乗り継ぎ時間が・・・。

その乗り継ぎ時間を利用して、コペンハーゲン市内ミニ観光に繰り出した。

空港ロビーに直結したメトロの駅から約20分。
コンゲンス・ニュートーの駅で降り、広場に出たところで目にしたのが、この光景。
抜けるような北欧の青空のもと、首都のど真ん中の広場で、小学生たちが輪になって遊んでいる!
日本じゃ考えられない光景だ。

そして、すぐ近くの運河沿いのエリア「ニューハウン」へ。
建物の色と水の色、そして空とのコントラストが見事!

そして、「世界三大ガッカリ」とか何とか言われても、一度は見てみたい「人魚姫」。
天気も良く、世界各国からの観光客で賑わっていました。

アマリエンボー宮殿で衛兵の交替式なんかを見て、
ショッピング街「ストロイエ」でデンマークのデパ地下をひやかしたり、ロイヤル・コペンハーゲンやインテリア・ショップをのぞいたりし、
再びメトロで空港へ。
初めて降り立った北欧の町の風情を垣間見た、楽しく充実したオマケ観光でした。

2011年10月20日木曜日

バロック劇場の技術力

プラハからウィーンに向かう途中、南ボヘミアのチェスキー・クルムロフに1泊した。
ここは、ヴルダヴァ川が大きく蛇行したところに、13世紀に建てられた城がそびえる小さな町。
ユネスコの世界遺産に登録されていて、観光客もたくさん。

地元のビール醸造所や城を見学したり、川鱒料理とボヘミア・ワインを堪能したり・・・と、一通り観光をすませた翌日、再び城に出かけて劇場見学をすることにした。

このチェスキー・クルムロフ城には、バロック劇場が保存されていて、劇場だけの見学ツアーが設定されている。

城本体の見学ツアーに比べて、劇場だけのツアーは参加者もわずか。
我々のほかに、イタリア人カップルの4名だけ。

ここの特徴は、舞台機構がほぼ完全に保存されていること。
デモンストレーションを見せてくれるのかと思ったが、それはビデオでの鑑賞のみ。
客席やオケピット、舞台裏や奈落などを見学した後、ここで上演されたバロック・オペラの映像で、スペクタクルな舞台転換や切り穴を使った人物の登場など、様々な機構の操作やバロック時代の演出を鑑賞。

舞台の奈落では、滑車につながれたロープを操作して、一瞬ですべての袖パネルや背景幕を転換。町の広場から宮殿の大広間へ、城の庭園から戦場へと転換させていく。
この舞台転換の迅速さをもってすれば、あの繰り返しばかりで少々単調なバロック・オペラも大いに楽しめることだろう。

そして、驚きなのは、このスペクタクルでスピーディな大転換をたった二人の男(スタッフとか舞台係なんていうより、この場合「男」というのが相応しい・・・)でこなしていること!
最新式のコンピュータ制御の舞台機構なんか入れて、機械のメンテナンスに莫大な費用を要し、安全確認係も含めてスタッフも大勢配置しなければならない現代とは大違い。一瞬、舞台機構の技術力は、バロックから現代に時代が移るにつれて「退化」したのではないかと思ってしまったほど・・・。

この劇場空間と舞台機構を知らなければ、バロックの舞台芸術は理解できないだろうなぁ。
いつの日か、ここでバロック・オペラが上演される機会があったら、是非、再訪したいと強く思った。

2011年10月19日水曜日

スクロバチェフスキ御大の名演

いやぁ、長~い演奏会だった。
「長~い」っていうのは、本番時間のことじゃなく、
指揮者とオケの名前・・・。
(ついでにホール名も長い)

■スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮
ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・
ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団
[2011年10月19日(水) 東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアル]

御歳88歳!!!のスクロヴァチェフスキ御大が、
首席客演指揮者をつとめるドイツのオケを率いて来日。

曲目は、
モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」

“爺さん好き”としては、足を運ばないわけにはいかない。

スクロヴァチェフスキの指揮には、これまでも読響やN響で何度も接している。
そして、老いてなお、というか老いて益々・・・いやいや、「老い」などとは全く無縁に、毎回、「骨太」で「矍鑠」とした音楽を聴かせてくれることに感服している。

今回も、いたるところにバランスの細工や微妙なニュアンスなど、様々な「味付け」を施しながら、それらがちっとも「作為的」にならず、曲全体が心地よい緊張感をもって弛緩することなく滔々と流れていく、演奏芸術の醍醐味に感動。

特に、弦の中音域や低音域をおろそかにせず、しっかりと響きの厚みと強度を作っていたのが印象的。そして時おり、こんな美しいフレーズが隠されていたのか、とハッとさせられるような瞬間があり、何度も聴いているはずの曲でも新鮮な体験ができる悦びがあった。

本当に感動的な演奏会というのは、曲が終わりに差しかかるにつれて、「あぁこのまま、いつまでも終わらないでほしい・・・」と思うもの。
まさに、演奏が終わってしまうのが惜しいような演奏だった。

拍手やブラボー!のフライングもなく、最後の和音の余韻がホール空間に消えていってから、爆発的な拍手とブラボー!(ホッとした)
オケの団員が引き揚げてからも、2度の指揮者ソロ・アンコール。1回目はホルン奏者、2回目はコンマスを伴って舞台に登場。うれしそうに拍手に応えるマエストロも、満足そうだった。

2011年10月18日火曜日

オルガンは教会に限る!

「さんまは目黒に限る」じゃないが、
やっぱり、オルガンは教会で聴くに限る。

ヨーロッパを旅していると、古くからある教会で行われるオルガン・コンサートに出くわすことがよくあり、そういう機会には、出来るだけ足を運ぶようにしている。
なぜなら、コンサートホールにどんなに「立派な」パイプオルガンを設置しても、「ヨーロッパの古い教会」だけは日本に持って来られないのだから・・・。

今回の旅行でも、プラハの街でオルガンのコンサートがあることを知った。

場所は、旧市街からカレル橋を渡った、プラハ城の「麓」みたいな地区「マラー・ストラナ」にある、聖ミクラーシュ教会。
中に足を踏み入れた瞬間、その装飾の美しさに目を奪われる。
 そしてここのパイプオルガンは、モーツァルトが1787年に演奏したことでも知られていて、今でもちょっと遠目にその楽器を見ることができる。

コンサートで使用したオルガンは、祭壇に向かって左側のバルコニーに設置された別のオルガンだったが、モーツァルトが目にした教会内部の「景色」を同じように見ながら聴くオルガンの響きは格別だった。

プログラムは、オルガンとトランペットの組み合わせで、二重奏とオルガン・ソロが交互に組み合わされた構成。
シャルパンティエにはじまり、ブリクシBrixiやヴァンハルVanhalといったチェコの作曲家、J.S.バッハやヘンデル、ブクステフーデなど盛りだくさん。
もちろん、モーツァルトの作品も2曲(Kv.153とKv.154のフーガ)、演奏された。

オルガンはJosef Ksica、トランペットはJosef Zamecnik。

観光客を対象とした1時間程度のコンサートだが、オルガンの柔らかな響きとトランペットの直線的な響きが教会の中で心地良く融和し、心癒されるひとときだった。

ヨーロッパを旅する機会があったら、教会でのオルガンコンサートは要チェックですよ。

2011年10月17日月曜日

楽友協会に響くモーツァルトとマーラー

ウィーン最後の晩は、ムジークフェラインの大ホールに出かけることにした。

■ローター・ツァグロセク指揮、ウィーン交響楽団
[2011年10月12日(水)19時30分開演 ムジークフェラインザール・大ホール]

指揮は、ジェイムズ・レヴァインの代役でNYに飛んで行ってしまった首席指揮者のファビオ・ルイージに代わり、ローター・ツァグロセク。
曲目は、
モーツァルト:ピアノ協奏曲 Kv.467
マーラー:交響曲第7番

まず!
モーツァルトでソリストをつとめたセルビア生まれの女性ピアニスト、
ヤスミンカ・スタンクルJasminka Stanculが素晴らしかった!
演奏会用ドレスではなく、黒のジャケットに黒のスラックス、赤いシンプルなブラウスという衣裳で登場。颯爽とした外見同様、音楽も弛緩したところがなく、軽快そのもの。
Fazioliのピアノを使用し、コロコロとしたピアノの音が宝石のようにホール空間のあちらこちらに乱反射して愉しげに踊る。
良く響くオーケストラの適度な音の厚みの上で、ピアノの音が何と素敵に聴こえたことか!
完全手造りのFazioliのピアノも、初めて聴く機会だったが、モーツァルトの疾走するパッセージに抜群の効果を発揮していた。

ピアニストも、この疾走感をもっと楽しみたかったからなのか、ソロ・アンコールにはさらに速いパッセージで弾きまくる現代的な小品をプレゼントしてくれた。
後で、ムジークフェラインのホームページで確認したら、Boris Papandopuloというクロアチア人作曲家(1906-1991)のエチュード第1番。

ムジークフェラインの舞台は狭いので、休憩中の転換も大変。ピアノだって、足はずして立てて移動です。

休憩後は、マーラーの大曲、第7番の交響曲。
印象に残ったのは、第2楽章。
夜営に向かう兵士たちのボヘミア風マーチに、牧場の牛たちが驚いてカウベルをカランコロンと響かせる・・・今回、プラハからウィーンへと旅してきて、マーラーが故郷で耳にしたであろう音楽風景を、マーラーも舞台に立ったことのあるここウィーンで聴くことができ、このとっつきにくい曲に初めて親しみを覚えた。

ツァグロセクの指揮は、派手さはないものの、職人的なプロの仕事ぶり。
ムジークフェラインの豊かな響きを楽しみながら、マーラーの長大な交響曲をまとめ上げ、大喝采を浴びていた。
ウィーン交響楽団も好演!

それにしても、ホールを出て、リングを渡る信号待ちをしていたら、後ろに立った老婦人お二人のこんな会話が・・・。
「長かったわね」
「そうね。マーラーなんて聴いたことある?」
「いいえ」
「わたしは、2回目かしら」

一瞬、マーラーと同時代の人かと錯覚してしまったが、そんなことはない。
マーラーは今年没後100年だもの・・・。
でも、一瞬でもそう思わせてしまうほどの、ウィーンの街の雰囲気でした。

2011年10月16日日曜日

ウィーンでオペレッタと歌芝居

ウィーンでは、次の2本。

■ヨハン・シュトラウス「ウィーン気質」
[2011年10月10日(月)19時開演 ウィーン・フォルクスオパー]

オペレッタというものに普段あまり接する機会がなかったが、せっかくウィーンに来たのだから、ウィーンらしい演目を観ようということで、当日になってフォルクスオパーの「ウィーン気質」の切符を取る。

夕暮れに浮かぶフォルクスオパー。赤のラインが印象的。
 今年9月にプレミエ上演されたばかりの、Thomas Enzinger演出による新プロダクション。

マイム役者演じる金ぴかのヨハン・シュトラウス像が舞踏会場の入り口で客からチップをもらったり、クリムトやフロイト、はてはフランツ・ヨーゼフ皇帝やエリザベート妃を思わせる人物などが登場したり、とまさにウィーン気分満点。
舞台美術も大胆で、フォルクスオパーの小迫りや回り舞台を効果的に使用しスピーディ。
歌手たちも芸達者で、理屈抜きで楽しめる。
「トリッチ・トラッチ・ポルカ」でのバレエ・シーンも見事!
そして、Wiener Blut(ウィーン気質)の二重唱が歌われたときには、思わず胸が熱くなった。

ウィーンでこそ味わえる、オペレッタの愉しい時間だった。


■モーツァルト「魔笛」
[2011年10月11日(火)19時開演 ウィーン国立歌劇場]

そして、Staatsoperの「魔笛」。
これも、モーツァルトとこの街に所縁の演目。
Marco Arturo Marelliの演出・舞台美術・照明による、2000年プレミア上演のプロダクション。
今回の指揮はアダム・フィッシャー。

「魔笛」用の緞帳になって、開演を待つ・・・
 ちょっと傾斜した大きなキューブBOXの舞台デザインに、幕や照明に大胆な色を使い、その中でおなじみの「魔笛」の世界が展開していく。

この街で市民社会が力を得ていった時代に、モーツァルトとシカネーダーの共同作業で、
自由や幸福を謳いあげた、この「歌芝居」が創られたのだと思うと、感慨もひとしお。

「魔笛」というオペラ(というか歌芝居)は、ストーリー展開や人物の造形を厳密に考えると、おかしなところもたくさんある作品だが、ウィーンの街でモーツァルトの住居や葬儀が行われたという場所などを見物した後だと、死を直前にしてもなお、こんなに素敵な音楽を生み出したモーツァルトの才能に思いをめぐらせないわけにはいかない。

出演者は、パパゲーノのHans Peter kammerer、夜の女王のJulia Novikova、モノスタトスのBenedikt Kobelらに、もう少し声量があったらと感じた。

それにしても、さすがはウィーンの国立歌劇場。
アン・デア・ウィーン劇場でのプレミエから10年以上が経過し、引っ越し公演も含めて1000回以上も上演されているプロダクションにもかかわらず、しっかりとした水準に満足した次第。

2011年10月15日土曜日

プラハのオペラ3題

さてさて、プラハでは、代表的な劇場3つでオペラを鑑賞した。

■ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ」
[2011年10月4日(火)19時開演 国民劇場Narodni divadlo]

ドイツ人支配に対抗して、チェコ民族がチェコ人のために作った国民劇場。
ヴルダヴァの河畔に黄金の屋根をいただいて堂々とそびえる劇場だ。

日本から予約はしていなかったが、プラハ訪問の記念に、その劇場を訪問してみることに。
演目は、イタリア物だったが・・・。

劇場の中は装飾も華やかで、豪華そのもの。
プロセミアム上部のNAROD SOBE!
のスローガンに、チェコ国民の気概が感じられる。
案内係の女性に意味を尋ねたところ、
「チェコ民族がプレゼントし、自分たちにもプレゼントし・・・」
とかいう意味だとか。
「チェコ民族による、チェコ民族のための」
といったところなのだろうか。

額縁上部にNAROD SOBE!の文字が・・・

ところが、客の入りがあまり良くない。
高齢のプラハ市民と観光客で6~7割程度といったところ・・・。

オケの音もヴェルディの壮麗さと甘美さには程遠い。
(指揮は、日本でもおなじみのマエストロ、オンドレイ・レナルト)

半円形の装置を組み替えて見せる舞台も、
見た目に変化が乏しく貧弱に見えてしまう。

では、歌や演技が素晴らしいかというと、
舞台上のアンサンブルの緊張感やテンポ感も今ひとつ。
子役なんか、きっかけがきっかけが早過ぎて、出トチってた。

演出は、Jana Kalisova。1998年2月プレミエの版。


■モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」
[2011年10月5日(水)19時開演 スタヴォフスケー劇場Stavocske divadlo]

2本目は、「ドン・ジョヴァンニ」。
初演された所縁の劇場での上演。
実は、旅行の日程を立てているとき、この劇場で「ドン・ジョヴァンニ」の上演があることを知り、
前後の日程を組みかえたほど。

制作は、国民劇場で、オケも合唱もバレエも同じ。
だが、モーツァルト所縁の劇場での上演ということで、
こちらの方がはるかに活き活きとした上演だった。

まず、Josef Svobodaによる舞台美術が素晴らしい。
客席側の内装デザインがそのまま舞台にも連続している。
客は、まるで舞台が繰り広げられる場所に自分たちもいるような感覚で、
オペラの劇世界に没入できる。

ツェルリーナを演じたのは、Yukiko Srejmova Kinjoさんという日本人。
日本人らしく丁寧な歌唱が印象的。
ドン・ジョヴァンニのMartin BartaとレオポレッロのPeter Mikulasのコンビも楽しめた。

騎士長は、「ラ・トラヴィアータ」の医師グランヴィル役、
そして、ドンナ・アンナはヴィオレッタ役。
こうした連日の出演は日本では考えられないこと。
レパートリー上演の「一座」感が出ていた。

指揮は、Jan Chalupecky。
Vaclav Kaslik演出の2006年5月プレミエ版。

Don Giovanni終演後のスタヴォフスケー劇場

モーツァルトが、この街で愛され、幸せな時を過ごしたことを想像しながらの舞台体験でした。


■ドヴォジャーク「ルサルカ」
[2011年10月7日(金)19時開演 プラハ国立歌劇場Statni Opera Praha]

そして、プラハでの3本目、三つめの劇場は、
かつてのドイツ劇場、プラハ国立歌劇場でのチェコ物「ルサルカ」。

雨が降っていて寒かったので、道路の反対側に渡って正面から写真を撮るのはあきらめた。

チェコ語のオペラは、その言語のせいもあるだろうが、なかなか上演に接する機会がなく、
本場のチェコでチェコ人による上演に接してみたかったのだ。

さすがに合唱など、解らないなりにもチェコ語の響きが素晴らしく、聴きにきて良かったと思った。

演出は、Jiri Strunc。
序曲が始まると、紗幕に水面や森の中の湖、森の精や白馬に乗った王子の一行などが映し出されて、ドラマへとつながっていく。そう、「連鎖劇」そのものの手法。

演出的な特徴は、この映像を効果的に活用した連鎖劇的手法。
このおかげで、「ルサルカ」のお伽噺的な世界が、ある程度説得力のある舞台として、ダイナミックに舞台化されていた。

ルサルカを演じたHelena Kaupovaは、声量があまり豊かではなかったのが残念。
特に低音部など、完全にオケに消されてしまっていた。
水の精ヴォドニク役のRoman Vocelは、堂々とした体格と声量、緑色に塗った顔や衣裳で、異次元の存在として異彩を放っていた。

それにしても、こちらも客の入りは悪かったのは残念。
いくら、かつてのドイツ劇場とはいえ、チェコの国立の歌劇場が、お国物のドヴォジャークのオペラでこの不入りは情けない。

2011年10月14日金曜日

まずは写真で・・・

プラハ&ウィーンの旅から戻った。
約10日間の滞在中、足を運んだ劇場・ホールは次の通り。

















パソコンは持参したけれど、ブログのアップなんかする暇もないくらい街歩きを楽しんでいたので、観たオペラ、聴いたコンサートの感想は、いずれ追々・・・。

まずは場内写真だけでお楽しみください。

開場中や休憩中に写真を撮っていても、どこかの国みたいに「レセプショニスト」がすっ飛んで来ることもなく、大変おおらかで楽しい舞台芸術体験でした。

2011年10月3日月曜日

渡欧を前に

さて本日から、2年ぶりのヨーロッパです。
今回の訪問先は、プラハとウィーン。
これまで、どちらかというとイタリアとかスペインとか「地中海世界」に行くことが多かったので、海のない中欧は本当に久しぶり。

オペラも3本観る予定。

それにしても、最近、欧米でオペラやコンサートに行くときに思うのだが、
あちらのチケット予約が便利だねぇ。
インターネットで席まで指定できて、チケットは自宅のプリンターでバーコード入りチケットをプリントアウト。(プラハは、到着までに宿泊ホテルにデリバリーしてくれる。)
海外から旅行者が頻繁に訪れ、舞台芸術を楽しむ環境が当たり前の社会ならではのサービスだ。

それに引き替え、我が日本は・・・。
試しにいくつかの劇場や演奏団体で試してみたが、ほとんどが・・・駄目だこりゃ。
上演する側が、「外人さんは、どうせ日本に来てまでオペラやクラシック・コンサートなんか行かないでしょ」と言っているようなもん。
いつまでも「コンビニ引き取り」とか「代金お支払い確認後、郵送」なんてことやってたんじゃ、この小さな島国に暮らす人の中で、舞台芸術に興味を抱く僅かな人にしか切符は売れないよなぁ・・・。
これじゃあ日本の舞台芸術を取り巻く環境は成熟・発展しないよ。

「助成金」を芸術団体にチマチマばら撒くなんてことはやめて、欧米や中国・韓国からでもチケットが取りやすい予約&発券システムの「インフラ整備」に国家予算さいて、「ようこそニッポン!」キャンペーンでもやりゃあいいのに。
そうすりゃ、芸術性の高い創造的な芸術団体は客が増えて、企業協賛なんかもボンボンついて、「社会的に必要な存在」としてのステイタスが抜群に向上すると思うよ。

・・・・てなことはさておき、そろそろ出かけるとするか。

2011年10月2日日曜日

クストリッツァ監督「アンダーグラウンド」

久しぶりにいい映画を観た。
エミール・クストリッツァ監督の1995年カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作、「アンダーグラウンド」。

3度の「戦争」でズタズタになった挙句、「国」そのものが失われてしまったユーゴスラヴィア。
「首都」ベオグラードの動物園や劇場を舞台に、詐欺師まがいの自称劇作家、電気技師、美貌の舞台女優をはじめ、猥雑で活力のある登場人物たちが「国難」の中、したたかに生きていく。

この映画で「地下に潜った」人たちは、地下に武器工場を作り、鉄砲から戦車を作りながら社会を作って生活している。
最初はナチの侵略に抵抗してのことだったが、「東西冷戦下」ではチトー体制を文字通り地下から支え、やがて「内戦」が終わってみると祖国そのものが消滅していた・・・。この一見「大河ドラマ」的で壮大な歴史の流れを狂気を交えたファンタジーで力強く映像化していく。
これぞまさしく「映像による叙事詩」。監督が描きたかった「祖国」「民族」「人間」「戦争」に対する想いが凝縮され、「濃い映画」になっている。

「濃い」といえば、東欧のジプシー・ブラスバンドの強烈な音楽が全編にわたって付き纏うのも快感。

ドナウ河の岸辺でパーティをするラストシーン・・・これはもう感動的ですよ。

観終わってみれば、随所に暗喩や警告がアイロニーたっぷりに散りばめられている。
それらを一つ一つ思い起こしながら考えるのも一興。
これぞ優れた芸術作品に触れたときの悦びというものだ。
カンヌで大賞を獲得したのも頷ける。

とにかく、歴史を奇抜なアイディアで脚色しながら、観る人の心を強烈なメッセージで射抜く手腕はさすが。映像作家クストリッツァ監督にBravo!

10月21日までの限定上映だからお見逃しなく。

2011年9月24日土曜日

室内楽で励まされる日本

6月のライプツィヒ弦楽四重奏団によるチャリティコンサートに続いて、
http://dellarte-yoshida.blogspot.com/2011/06/blog-post_27.html
東京ドイツ文化センターがまたまた震災被害者のためにチャリティ公演を催してくれた。
現在「引っ越し公演中」であるバイエルン国立歌劇場のオーケストラメンバーの自主的な申し出によるものだとか。なにせ、400人規模の来日メンバーのうち、4分の1の100人が日本行きを拒否した、とかで話題になっていただけに、チャリティ演奏会で日本を応援しようという気持ちをもっているメンバーもいることを知って、日本人としては大いに励みになったのではないだろうか。

■バイエルン国立管弦楽団団員による
チャリティ室内楽コンサート
[2011年9月24日(土) ドイツ文化会館ホール]

シューベルト:弦楽三重奏曲第1番 変ロ長調 D.471
モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 Kv.581
シューマン:ピアノ四重奏曲 変ホ長調 Op.47

編成と作曲家のタイプが異なる3曲によるプログラムで、変化があり、素直に楽しめた。
気心知れたオーケストラ仲間によるアンサンブルの愉しみ、といったところ。
丁々発止を繰り広げる音楽ではなく、音楽することの悦びに満ちた室内楽本来の姿・・・。

震災から半年が経過して、落ち込んでばかりもいられない時期。
でも、音楽の力で「再生」と「復興」に向けて気持ちを新たにし、着実に歩んでいかなければならない。そんな日本人の肩に優しい手で添えてくれるような演奏会だった。

2011年9月21日水曜日

嵐の中、感動を求めて・・・

苦労の後には喜びが・・・。
台風直撃の中、なんとかホールに辿り着いた聴衆に贈られたのは、素晴らしい音楽体験だった!

外は暴風雨。公共交通機関もズタズタ。
途中の「足」がどうなるかわからないし、そもそも傘なんか役に立たないほどの雨と風。
なるべく濡れないようにルートを選び、それでもずぶ濡れになりながら辿り着いサントリーホール・・・開演前に客席を見てビックリ!
客がほとんどいない!
故・岩城宏之マエストロが現代音楽をギンギンやっていた大昔の3月定期でも、こんな「不入り」はなかったなぁ。
ざっと数えると、400人から500人・・・2割から2割5分といった寂しい光景。

でも今日の客は、この嵐の中、ブロムシュテット&N響の音楽に期待を込めて馳せ参じた「熱い聴衆」だった。

■ヘルベルト・ブロムシュテット指揮、N響第1708回定期
[2011年9月21日(水) サントリーホール]

シューベルト:交響曲第7番「未完成」
ブルックナー:交響曲第7番

・・・という、重厚名曲プロ。
10日前の「新世界交響曲」にいたく感銘してたから、期待も大。

各セクションが絶妙の調和で融合する有機的な響き。
そのブレンドの中から醸し出される、滋味あふれる音楽。
シューベルトもブルックナーも、聴き慣れた名曲だが、いつまでもその音楽に浸っていたいと心から願いたくなるような、新鮮で温かみのある音楽。
究極の再現芸術であるオーケストラ演奏の真髄みたいなものが、今日の演奏会からは感じられた。本来、演奏会というものは、このくらい密度が高くなければ!
(でも、その密度を体験できるのは、悲しいかな何年かに一度といった割合なのも現実)

そうそう、「密度」といえば、今日の客席は少ないとはいえ、この悪天候の中、「聴きたい!」と集まった積極的な客。不用意な雑音もなく、舞台と客席の「気持ち」が通じ合って化学反応を起こし、とてもいい空気を作り上げていたのも印象的。

素晴らしい演奏会に、客席が感動しないはずはない。
N響の定期公演には珍しく、楽員が引き揚げた後に、マエストロのソロ・カーテンコール!
いつまでも記憶に残る「感動的な演奏会」が、久しぶりにまたひとつ増えた。

2011年9月19日月曜日

ザンデルリンクが亡くなった

今朝、インターネットや新聞に指揮者クルト・ザンデルリンクの訃報が乗っていた。
ベルリンで死去。98歳だったそうな。
http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY201109180397.html

ザンデルリンクの指揮は、かつて2回接している。
読売日本交響楽団を指揮した次の演奏会。

1978年9月22日 日比谷公会堂
読売日響 第145回定期
ベートーヴェン:交響曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

1978年10月17日 日比谷公会堂
読売日響 第146回定期
ストラヴィンスキー:三楽章の交響曲
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
  (ピアノ独奏はアルド・チッコリーニ)
シューマン:交響曲第4番

会場が日比谷公会堂だったせいもあるだろうが、硬質で堅牢な演奏だった印象が残っている。
それは、彼がドイツからソ連に移住し、レニングラード・フィルの常任になったこととも関係するかもしれない。西欧やアメリカの音楽ビジネスとは無縁の社会主義的環境で、ひたすら音楽にのみ向き合っている質実な巨匠・・・といったイメージだ。

その後、何度かとも来日したようだが、実演を聴いたのはこの2回のみ。
シュターツカパレ・ドレスデンとの来日演奏会を録音したチャイコフスキーの交響曲第4番のCDを聴きながら、静かに追悼するとしよう。

そうそう、父の遺品には、レニングラード・フィル初来日公演(1958年!)のプログラムがあって、アレクサンドル・ガウク、アルヴィド・ヤンソンスとともに、クルト・ザンデルリンクの名前が載っている。
ちなみにソリストはロストロポーヴィッチ。

ザンデルリンク指揮によるプログラムは2種類。
ひとつは、
チャイコフスキー:幻想序曲「ハムレット」
プロコフィエフ:チェロ協奏曲(「ロストロポーヴィッチに捧ぐ」とあるからおそらく第2番の方)
ブラームス:交響曲第4番

もうひとつは、
ラフマニノフ:交響曲第3番
チャイコフスキー:交響曲第5番

という、なかなか骨のあるプログラム。
演奏会場は、「新宿コマ劇場」だって・・・。時代だねぇ・・・。

また一人、真のマエストロがいなくなってしまった。
合掌。

2011年9月11日日曜日

Bravissimo!ブロムシュテットの「新世界」

■ブロムシュテット指揮、N響定期
[2011年9月11日(日) NHKホール]

NHKホールではオーケストラと一体となれないもどかしさをいつも感じていたが、今日は音楽がなんとも絶妙なバランスで心地よく響き、心躍る感動的な体験ができた。

それもこれも、ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮のおかげ。
このマエストロ、N響を振り始めたころは、正直言ってあまり好きなタイプじゃなかったが、ここ2~3年の来演で、こりゃやはり只者ではないぞ、と(遅ればせながら)感心&注目しはじめた次第。

今回は、「新世界」(Aプロ)、「チャイ5」(Cプロ)、「未完成」(Bプロ)・・・と、名曲中の名曲を並べた9月定期シリーズだが、今日の「新世界交響曲」なんか、これほど各セクションがバランス良く有機的に響き、音楽そのものに素直に感じ入ることができる、まさに「名演!」だった。
手あかのつくほどやりつくされたような名曲をここまで料理し、しかも作為的なものを何も感じさせず、音楽そのものに内在する芸術的説得力だけで勝負する・・・こうした演奏芸術を実現できるのは、真の巨匠の証!

マエストロ・ブロムシュテットは、今年御歳84歳。
でもちっともよぼよぼしていない。むしろ元気ハツラツ。
テンポだって緩まないし、音楽の造りが堅牢そのもの。
この先まだまだ何回も来日してもらって、「実のある」音楽を聴かせてほしいものである。

プログラム前半は、竹澤恭子をソリストに迎えて、シベリウスのヴァイオリン協奏曲。
オケの確固とした音楽の上に、ソリストのパッションがしっかりと乗って、見事な演奏!
(当初のソリストは、レオニダス・カヴァコス。病気でキャンセルだとか・・・)

それにしても、演奏がいいと、客席の雰囲気も良くなるもんだ。
今日は、不注意な雑音(クシャミの暴発とか、飴の袋を破るカシャカシャ音とか、居眠りしててプログラムやチラシをバサッと落とす音・・・)がほとんどなく、舞台と客席が「音楽」を共有し体感している心地よい空気が感じられた。

すべての点で、Bravissimo!な演奏会でした。

2011年9月9日金曜日

こりゃあ確かにビッグバンだ!

「記譜法」(いわゆる楽譜)、「オペラ」、「平均律」(いわゆる調律)、「ピアノ」、そして「録音技術」・・・。

そのどれもが、人類がもともと当たり前に持っていたものではない。偶然にせよ、歴史の必然にせよ、いつかどこかで誰かが「発明」した産物なのだ。

鑑賞するだけにせよ、演奏する側にせよ、現代の我々が音楽生活を営む上で、これらがなかったらどんなことになっていただろう。
「自分はオペラなんか見ない!」という人もいるかもしれないが、音楽で人間の情感を表すのに「オペラ」という芸術形式は画期的だったし、その後のあらゆる音楽や音楽劇に多大な影響を及ぼしたのだ。

ましてや、「楽譜」がなかったら、オーケストラだって演奏できないし、現代の演奏家がモーツァルトやショパンの曲でリサイタルをすることもできない。
「ピアノ」なんか、ピアノ教室にリサイタル、合唱の伴奏やオペラの稽古、ラジオ体操なんかにも大活躍である。
「録音技術」がなかったら、音楽を聴く機会が著しく減ってしまうだろう。(現代人はちょっと音楽を聴き過ぎな感も否めないが・・・)
「平均律」だって、演奏家がバラバラな調律による楽器や音階で演奏してたら、(少なくとも西洋音楽になじんだ耳には)かなり耳障りな音楽に聴こえるはず。

この本は、これら我々にとって当たり前な音楽の「事物」を、かなり専門的な事柄にも突っ込みながら解りやすく(「平均律」の章はチト難しかったが・・・)説明してくれている。

原題は「Big Bangs~The Story of Five Discoveries that Changed Musical History」。
読んでみると、これら五つの事物の出現が、音楽史上まさに「ビッグ・バン」だったことが解る。

「音楽史を変えた五つの発明」
ハワード・グッドール著(松村哲哉:訳)
2011年 白水社刊

2011年9月3日土曜日

マーラーで秋のシーズン開幕

■インキネン&日本フィル「マーラー:交響曲第3番」
[2011年9月3日(土) サントリーホール]

まだまだ蒸し暑いし、台風も接近している中、
9月に入って無理やり「芸術の秋」が開幕したといった感じ。

今年の個人的シーズン始めは、
ピエタり・インキネンが指揮する日本フィルでマーラーの「3番」。
「夏の朝の夢 Sommermorgentraum」なんていうタイトルがついていたこともあるくらいだから、夏の時期にはいいのかも。でも、マーラーが夏の別荘で体感した夏の自然とは、日本の夏はずいぶんと違うだろうなぁ。なんせ、この湿度・・・。

演奏の方は、一言でいうと端正なマーラー。
やっぱり日本のオケの特性なんだろうな。
妙に脂っこさがなくて、「きちんとした」演奏。
でも、それだからこそ、曲の壮大さが自然と作用して、
立派なマーラー演奏でした。

メゾ・ソプラノのアンネリー・ペーボの歌唱が見事。
舞台姿に華があって、この長大な曲の良きアクセントになっていた。

2011年8月26日金曜日

本水のなか夏芝居見物

■八月花形歌舞伎「怪談乳房榎」
[2011年8月26日(金) 新橋演舞場]

まるで本水の立回りのような局地的豪雨のなか、
新橋演舞場に出かけて夏芝居見物。

勘太郎、七之助、獅童らによる
円朝の怪談噺をもとにした「怪談乳房榎」。

小悪党のうわばみ三次、朴訥な下男庄助、高名な絵師・菱川重信、
それに三遊亭円朝の四役を早替りで勤めた勘太郎。
父・勘三郎、祖父・先代勘三郎を彷彿とさせる口跡と身のこなしで、
あぁ、中村屋の芸風はしっかりと継承されているな、と感心感心。
うわばみ三次の小悪党ぶりが、見得で決まったときの切れ味といい、
目の表情といい、小気味よく見事。
それとの対象で、
下男庄助の田舎者ぶりも、
見ていてじれったくなく、さらりとしていて好感がもてる。
そして、早替りや本水立回りで、
まさしく夏芝居らしく、若々しく軽やかに熱演。

「悪人」磯貝浪江役の獅童は、
見た目は申し分ない色悪ぶりなんだが、
なんとなく「重心の高さ」みたいなものを感じてしまう箇所が・・・。
歌舞伎の世界は、体全体から立ち上ってくる古典的な風情が必須。
さらなる精進を期待したい。

一本目に、扇雀、橋之助による「宿の月」。
女は結婚すると強くなる・・・という夫婦関係を描いた
他愛のない舞踊劇。

夏の夜の、
さらりと楽しい歌舞伎見物でした。

2011年8月9日火曜日

国家による文化政策の怖さ


ナチス時代のドイツに、「ユダヤ人文化同盟」というのがあり、オーケストラやオペラ、演劇、講演などの文化芸術を展開していたのをご存じだろうか。
いわゆる「アーリア人」と、「ユダヤ人」を分離し、ユダヤ人によるユダヤ人のためだけの「文化政策」をナチス政権が展開したのだ。
国際社会に対しては、「ナチス・ドイツはユダヤ人を迫害なんかしてませんよ。その文化力を高く評価し、手厚く保護していますよ」というカモフラージュ効果のため。そして、ユダヤ人の多くの芸術家や市民も、いわれのない迫害の中で、この文化活動に生きていくための活力や心の慰めを求めていたという。
「強制収容所」や「ホロコースト」といった忌々しい歴史を知っている後世の我々にとってみれば、そんなのナチスのまやかしだ、早くお逃げなさい、ということは容易い。しかし、現在進行形で状況が変化していくドイツ国内にあっては、日々の生活に追われ、国外に亡命することなどかなわなかった人々も多くいたのも事実なのだ。

「交響曲・不滅」
マーティン・ゴールドスミス著(住友進:訳)
2002年 産業編集センター発行

この本は、たまたま図書館で見つけた。
父母が「ユダヤ人文化同盟オーケストラ」の団員だったアメリカ人によるルポルタージュ。
ナチスによって翻弄された両親や祖父母たちの「人生」が解き明かされていき、読み応えがある。
ぎりぎりまで「ドイツに残った」ユダヤ人の言動から、ナチスによる狂気の時代を見ることができる。

それにしても、この本を読みながら、国家による文化政策に潜む「怖ろしさ」がひしひしと伝わってきた。文化とか芸術というものは、国家や民族と切っても切れない関係にあるのも事実。だからこそ、芸術に携わる者は、心して「中立性」や「批評精神」を忘れてはいけないんじゃなかろうか。
御上からの助成金や補助金にばかり頼っている、どこぞの国の現状だって、かなり危険だと思うんだがなぁ・・・。

そうそう、この本、読み応えはあるんだけれど、誤字や誤記が多いのには参った。
ベルリン・フィルが「ベルリン交響楽団」だし・・・・。
文中の曜日だって、あれっ?っていう間違いをしている。
書籍として商品化する前に、もう少し細かくチェックしてほしかったな。
その点だけが残念!

2011年8月4日木曜日

若者たちによる王道プログラム

夏の定番、「寄せ集め」オーケストラの公演をもうひとつ。
“世界の若手音楽家を育成する国際教育音楽祭”PMFのオーケストラコンサートだ。
こちらは、「寄せ集め」というより、若手音楽家がオーディションを突破して参加しているので、「寄り集まり」とでもいうべきか・・・?

■PMFチャリティコンサート
[2011年8月4日(木) 東京オペラシティコンサートホール]

札幌での約ひと月にわたる日程の後、大阪と東京で行われた成果披露演奏会みたいなもの。
指揮は、ファビオ・ルイジ。
曲は、モーツァルト、ワーグナー、ブラームスという「王道」プログラム。

この日は、特別支援企業の野村グループ主催によるチャリティコンサート。
何がチャリティかというと、チケット収入の全額を東日本大震災で被災した子どもたちの教育支援に役立たせるとのこと。このように使用意図を明確にしたチャリティ企画は賛同できる。

演奏に関して一言コメント・・・

1曲目はモーツアルトのクラリネット協奏曲。
クラリネット独奏は、スティーヴン・ウィリアムソン。
メトロポリタン歌劇場の首席をつとめ、今秋のシーズンからシカゴ響の首席に就任するとか。
柔らかい音でフレーズを繊細に紡ぎだす独奏に触発されて、オーケストラも折り目正しい中にも活き活きとした音楽を奏でBravi!

2曲目は、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から“前奏曲”と“愛の死”。
こういう官能的で爛熟した音楽で人を感動させるには、若者たちにはまだ早すぎるのかな?
一生懸命きっちりと演奏しようとはしているんだけど、一つ一つの音に込められているはずの「愛」とか「苦悩」とかが音楽になって伝わってこない。
でも考えてみたら、それでいいんだよ。
若者たちが、ワーグナーの官能美で人を感動させてしまったら、ある意味、大変だもん・・・。

休憩後は、ブラームスの交響曲第2番。
厚く温かみのある響きが、古典的な語法でしっかりと構築されているブラームスの音楽。アンサンブルを練れば練るだけ味も深く濃くなるだろうから、若手音楽家の“練成”にはうってつけの選曲かな。今年のPMFの若者たちも、なかなか健闘していました。
パート間の流れるようなフレーズの受け渡しとか、木管セクションのアンサンブルとか、まだまだ熟成には程遠い“若さ”は感じられたけど、丁寧で好感のもてる音楽づくりでしたよ。

でも、フィナーレのコーダでテンポを急に速めてオケを煽りたてたファビオ・ルイジの指揮は、個人的には「あれれ?・・・」という感じ。それまでの丁寧な音楽づくりが台無しになってしまって、最後だけお祭り騒ぎで終わってしまったかのよう。このコーダの中にも、“滋味”みたいなものが凝縮されているのだから、もう少ししっかりきちんと終わって欲しかったなぁ・・・。客席は沸いていたけど・・・。

客席は超満員。
やっぱりこういう活きのいい演奏会ってのは、いいねぇ。
若者たちにBravi!

2011年8月2日火曜日

元気になろうよ日本!

■チョン・ミョンフン指揮 アジア・フィルハーモニー管弦楽団
[2011年8月2日(火) サントリーホール]

いやぁ、実に久しぶりの演奏会。
猛暑の夏は、どうも「クラシック音楽」というものから距離をおきたくなってしまうんです。
で、日々聴く音楽とは、ジプシー・キングスとか、ジャズとか、イタリアのフォークロイックな音楽とか。
“クラシック”のジャンルだったとしても、ルネッサンス音楽とか・・・。
理由を聞かれても、なんとなく体と心が求めるから、としか言いようがない・・・。暑くなると赤ワインよりもキンキンに冷えた白ワインが飲みたくなるように、音楽に対する嗜好性にも自然と変化が出るものらしい。

で、久しぶりに出かけたのが、この演奏会。
オーケストラの定期や音楽大学がお休みになる夏の間は、こうした寄せ集めメンバーによる期間限定オーケストラの公演が多くなる。腕っこきの演奏家が集まっての、集中力の高い音楽を体験できるのでは・・・という期待感もあって、蝉しぐれの中、ホールに出かけてきました。

曲は、ベートーヴェンの7番とブラームスの1番という、交響曲の人気曲2曲。
ステーキとシチューみたいな重量級プログラムで、とても白ワイン気分じゃなかったけど・・・。

このオケ、常設ではなく、音楽監督のチョン・ミョンフンの許にはせ参じた韓国・日本・中国の音楽家による、まさにアジアの音楽家による合同オケ。メンバー表には、2日後の北京公演にのみ参加する奏者も含めて、総勢100名の名と所属オケが記載されており、チョン・ミョンフンが音楽監督をつとめるソウル・フィルの団員が圧倒的に多く39名。名前の表記がアルファベットなので、韓国人と中国人の区別がイマイチはっきりしないが、やはり韓国人の比率が大きい。それにしても、欧米の有名オケのメンバーもかなりいて、オーケストラという西洋文化の権化みたいな分野でアジアの音楽家の勢力が世界的に見ても大きくなってきたことが読み取れる。

そして何よりも、韓国がこうした音楽活動の「言いだしっぺ」となり、国際空港としても成田や羽田や関空なんかよりもダイナミックに機能している仁川(インチョン)市が支援しているという事実を舞台上に見ながら、「日本もしょうもない公的助成金なんかチマチマ出して、中途半端な芸術文化政策してる場合かよ!」などと考えてしまった。
クラシック音楽なんていう小さく狭い業界ばかりでなく、テレビをつければ韓流ドラマばかり、音楽はK-POPSが大流行・・・最近の日本は何事にもダイナミックさを失っているような気がしてしまうんだなぁ・・・。
チョン・ミョンフンがダイナミックに煽りたてるベートーヴェンとブラームスを聴きながら、日本が世界の東の果ての離れ小島になってしまったような、一抹の寂しさと焦燥感みたいなものを感じてしまいました。

そうそう、演奏会自体は、名曲ということもあるし、チョン・ミョンフン独特の節回しも全開で、大いに盛り上がって楽しめましたよ。
アンコールは、ベートーヴェンの5番の交響曲のフィナーレ!
たっぷりと肉料理の御馳走を堪能したという感じの一夜でした。

とにもかくにも、わが日本よ、もう少し元気になろうよ!

2011年7月10日日曜日

La fanciulla は愛人じゃない!

■映画「プッチーニの愛人」
[2011年7月10日(日) シネマート新宿]

なんとも詩情豊かな映画でした。
セリフはほとんどない。
あっても手紙を読む声とか、主要登場人物じゃない会社社長がプッチーニからの電話に応答する声とか、くらいなもの。
セリフとしての会話が「オン」で入っていないから、観客は想像力を働かせながら、事の推移を観察できる。

「オン」でないのは、セリフだけではない。
召使いの娘が、プッチーニのこわ~い奥さんにぶたれて発する叫び声もオフだったし、プッチーニに電報を届けにくるホテルのボーイの姿も「影」だった。

プッチーニの愛人問題という、きわめて「下世話」なスキャンダルが、情報量をあえて抑える手法、というか映像に語らせる高度な手法によって、一遍の詩のような映像作品に仕上がっている。

これは「観るべし!」です。

映画の公式サイトはコチラ
http://puccininoaijin.com/

そして、観に行く前の予習として、
プッチーニの「西部の娘」というオペラを是非観ておくとよろしい。
「西部の娘」に出てくる、主人公ミニーの酒場のイメージとかが、なぁるほど!、と納得できる。

あえて文句を言えば・・・、
日本語タイトルの「愛人」ってのは、いかがなもんだろう。
オペラ「西部の娘」は“La fanciulla del West”だし、この映画の原題も“Puccini e la fanciulla”、
映画の最後に流れたシューベルトの「死と乙女」だって、イタリア語では“La Mort e la fanciulla”。
つまり la fanciullaという言葉には、単に「娘」という以上に「乙女」「処女」という意味が込められていて、そこにこの映画の作り手のメッセージが込められていると思う。
週刊誌やワイドショーで使い古された「愛人」っていう語感が、この映画が醸し出している「詩情」に失礼なような感じがしてしまう。
まぁ、宣伝的には「プッチーニの愛人」の方が、刺激的なことはわかるけど・・・。

それともう一つ。
せっかくプッチーニの映画なんだから、最後の最後でシューベルトの「死と乙女」はないよなぁ。

2011年7月5日火曜日

シルク・ドゥ・ソレイユを楽しむ

■シルク・ドゥ・ソレイユ「クーザ」
[2011年7月5日(火) 原宿ビックトップ]

知人からお誘いを受け、シルク・ドゥ・ソレイユの「クーザ」を観にいった。

実は、シルク・ドゥ・ソレイユには過去に「出演」したことがあるのだ。

あれは2004年のNew Year。
ラスベガスはBellagioでの「O(オー)」という演目。
幸運なことに最前列のセンターの席が取れ、
本水を使ったスペクタクルなショーを楽しんでいたら、
なんと「客いじり」で舞台に上げられてしまったのだ。
いやぁ、びっくりしましたねぇ。
新年早々、ラスベガスの「初舞台」だもんね。

シルク・ドゥ・ソレイユの舞台はいくつも観ているが、
このときの「O」は、一番思い出に残っているなぁ。

で、今回の「KOOZA」。
無垢なイノセント少年が、トリックスターに導かれてKOOZA王国の様々な「住民」に出会い、成長していく・・・というストーリー。
その中で、様々なサーカス芸が披露されていく。
回転する巨大ホイールでのダイナミックな芸や、シーソーを使ってのジャンプなど、手に汗握る大技も楽しめたが、男女ペアによる「ハンド・トゥ・ハンド」とか、一輪車に乗った男女ペアのバランス芸なんかが、サーカス芸人の古典的で素朴な「芸」を感じられて面白かった。

シルク・ドゥ・ソレイユのショーは、
いつ見てもショーアップの演出力とテンポ感が素晴らしい。
個々の技もプロフェッショナルなら、作品の作り方やプロダクションの形態もプロフェッショナルでショービジネスそのもの。
でも、その巨大エンターテイメント企業の中に、ふと垣間見える「芸人魂」みたいなものが結構しびれるんだなぁ。

客席は、平日の昼間なのに(いや、平日の昼間だからこそ)満席。
客いじりも盛りだくさんで、大いに楽しめました。
Bravi!

2011年6月28日火曜日

爆発してこそ芸術なり!

■N響Music Tomorrow 2011
[2011年6月28日(火) 東京オペラシティ コンサートホール]

「芸術は爆発だ!」とは、かの岡本太郎の言葉。
この場合の「爆発」とは、なにも奇抜な表現で人を驚かせるってことじゃないんだなぁ。
自分のスタイルと、それを表現する確固たる技術があって、
作品から力強いエネルギーが出ていて、
観た者、聴いた者の心に強烈なメッセージを与え、
世界のマーケットの中で存在を主張する・・・
それを「爆発」と表現したんだなぁ・・・きっと。

N響が年に1回だけ催す、現代音楽のシリーズ、
「Music Tomorrow 2011」に出かけて、
そんな「爆発」する音楽に出会った。

曲は、第59回尾高賞受賞作品、
西村朗作曲、オーケストラのための「蘇幕者」だ。

オーケストラと舞楽の共演という大胆な発想。
舞台中央に、三間四方の舞楽舞台が設えられ、
それを三方から取り囲むようにオーケストラが並ぶ。
指揮台は、舞台後方の少し上手より。
舞台奥に弦楽器と打楽器、下手前に木管、上手前に金管、
という変則的な配置。

大阪の四天王寺などで行われる、
聖徳太子の御霊をまつる法要「聖霊会」の演目「蘇幕者」にインスパイアされた作品。
決して、日本の伝統芸術の西洋的表現ではない。
そこには、力強い音楽の響きと、芸術的メッセージが込められていて、
しかもエンターテイメント性もあるシアターピースになっていた。
45分もかかる「大作」だが、長さを感じさせない面白さ。
こうした作品を創り出した作曲家にBravo!

舞楽の舞人が3人必要なので、上演には制約があるだろうが、
ここらはN響の「親会社」のNHKが世界の放送オーケストラに働きかけて、
舞人と「舞楽」のスタッフだけ派遣して上演させたらどうだろう。
芸術作品に評価を与えたのなら、そのくらいのダイナミックさで紹介し、
世界中で「爆発」させて欲しいものだ。

舞楽の共演は、「天王寺楽所 雅亮会」。
舞人3人のお名前はプログラムに記載がなかったが、
1000年以上の伝統を誇る舞を力強く、きちんと表現し、
視覚的に楽しませてくれた。
彼らにもBravi!

プログラムの前半は、
尾高尚忠の「フルート小協奏曲」と
デュティユーの「コレスポンダンス」。

尾高賞の「原点」である尾高尚忠の作品は、
1947年の作曲というから、今から60年以上も前の「古典」。
軽やかさと様式美の中に、ふと日本的な「音」が感じられたりして、
面白い。
N響首席フルート奏者の神田寛明氏が好演。

デュティユーの作品は、リルケやソルジェニーツィン、ゴッホ、ムカルジー(インドからフランスに渡った人文学者・詩人)の書簡や作品が、ソプラノによって語られ歌われる。
ソプラノは、この曲を世界中で25回も演奏しているという、
バーバラ・ハンニガン。
こういう表現者がいて、繰り返し演奏されるということこそ、
新しい芸術作品には大切なんだ。

こんなに興味深く、面白い演奏会なのに、
客席の入りは今ひとつ。
N響は、昔は3月の定期で故・岩城宏之なんかが、
尾高賞受賞作品に加えて、内外の「現代音楽」をギンギンと紹介して、
ワクワクさせられたものだが、
最近の定期は、保守的&無思想になってしまった。
こういった「現代音楽」のプログラムを開催するのもいいんだが、
「普段の」定期公演のプログラムをもっとラディカルにしてもいいんじゃないかな。
コンセプトさえはっきりとさせられれば、お客だって楽しみにして会場に足を運ぶと思うよ。
N響の演奏活動だって芸術活動。
だったら、おおいに「爆発」しないとね!

そうそう、指揮はパブロ・ヘラス・カサド。
まだ30代半ばの「若手」。
派手さはないが、見事な指揮ぶり。
なかなかの注目株と見た。Bravo!

2011年6月27日月曜日

癒しと励ましの弦楽四重奏

■ライプツィヒ弦楽四重奏団
[2011年6月27日(月) ドイツ文化会館1階ホール]

音楽が素直に心に響き、癒しを施してくれるようなコンサートだった。

ライプツィヒ弦楽四重奏団は、数日間にわたり郡山、気仙沼、仙台など震災の被災地をめぐり、学校や教会、寺などでチャリティコンサートをおこなってくれた。
ドイツ連邦共和国大使館の呼びかけに応じての来日だそうな。

そして、東北地方でのツアーの締めくくりとして、東京・赤坂のドイツ文化会館のホールで一晩のコンサートを開催。
曲目は・・・
ハイドン:弦楽四重奏曲第77番 ハ長調「皇帝」
メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第2番 イ短調
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第15番 イ短調
・・・という重厚で立派なプログラム。

この中で印象的だったのが、メンデルスゾーン。
第一楽章の激しさ、そして終楽章ラストの美しく消え入るような和音。
震災の激動と、美しい山河への想いみたいなものが連想されて、感動的な演奏だった。

そして、何よりも感動的だったのは、
アンコールに演奏された、「夏は来ぬ」と「赤とんぼ」の弦楽四重奏版。
音楽が両国民の友情の証であり、「癒し」と「励まし」になるということが、素直に実感できる感動的な演奏。聴いていて、思わず目頭が熱くなってしまった。

このようなプロジェクトを実施してくれた、ドイツという国と国民に感謝!
そして、ライプツィヒ弦楽四重奏団の皆さんには、心からのBravi!を。

2011年6月21日火曜日

人と社会の「業」を描いた井上ひさしの名作

■井上ひさし「雨」
[2011年6月21日(火) 新国立劇場・中劇場]

「人殺し」にも様々なタイプがある。

小悪党が企てを成し遂げるために、目の前の障害を取り払おうと咄嗟に起こしてしまう「殺し」。
社会では充分「犯罪」として罰せられることにはちがいないが、芝居の世界では、当の小悪党ぶりも相俟って「面白い」見世物になる。

もうひとつの「人殺し」は、
組織や社会が、自らの運命共同体を守らんがために集団で起こすもの。
共同体の面々が「嘘」をつき、口裏を合わせ、一人の人間を「死」に追いやる。
そこには、集団ヒステリーのような不気味さがあり、
こちらのほうが「犯罪」として深く重く、
観る者への強烈なメッセージとなる。

新国立劇場で上演されている井上ひさし作の「雨」(栗山民也演出)は、
そんな二つのタイプの「人殺し」を観客に突きつけながら、
人の営みのはかなさ、悲しさを描いた力強い舞台だ。
人と社会の「業」みたいなものが、じわじわと観る者の心に迫ってきた。

山形の紅花問屋の当主になりすます江戸の金物拾いの徳を小気味よい小悪党ぶりで演じた市川亀治郎がBravo!歌舞伎役者だし、和物の身のこなしが板についていて、舞台上の芯になっていて安心して観ていられる。口跡も良く、江戸ことばと方言の「言葉」の効果も面白い。
紅花問屋の器量よしの女房を演じた永作博美もいい。器量と気品、そして終幕の不気味さと悲しさが体全体から発散されていた。

他の出演者もみな好演。
植本潤君が花組芝居の舞台で見せるときの「おきゃん」な感じを出しながらも、大店の番頭を「きちんと」造形していたのにも感心。

井上作品には少々広すぎる劇場空間かなと心配したが、回り舞台をテンポ良く使い、乞食や農民などの「群衆」も充分な数でダイナミックに動かしていた。
幕切れで舞台奥に一面の紅花畑が広がるシーンなどは、感動ものでしたよ。

6月29日(水)まで公演。見るべし!

2011年6月14日火曜日

巨大舞台機構と人間ドラマの勝利!

■METライブビューイング「ワルキューレ」
[2011年6月14日(火) 新宿ピカデリー]

2010-2011シーズンのMETライブビューイング最後の演目は、
ワーグナーの「ワルキューレ」。
ロベール・ルパージュ演出による『指輪』チクルスの第2弾だ。

現代のオペラ業界で、こんなにもスペクタクルな舞台が実現できるのは、
世界中探してもMETだけだろう。
「マシン」と呼ばれる巨大な装置が、家や森や岩山に変化する。
なんと!三幕冒頭の有名な「ワルキューレの騎行」では8頭の馬にまでなって、
客席(METの・・・)から期せずして称賛のジワがあがっていた。
このシーンだけでも一見の価値あり!Bravo!

歌手のド迫力もBravi!
フリッカを歌ったステファニー・ブライズは存在感が圧巻。
そんなフリッカの前でのブリン・ターフェル演じるヴォータンのオロオロぶりが微笑ましい。
そして、デボラ・ヴォイトのブリュンヒルデが、行動的な娘の雰囲気を醸し出していてBrava!
ヨナス・カウフマンのジークムントとエヴァ=マリア・ヴェストブルックのジークリンデは、
見た目にも双子の兄妹と納得できる姿形で説得力あり。
8人のワルキューレ(女戦士)たちも、容姿ともども粒がそろっていて、馬で戦場を駆け巡る活発な姫君であることがよくわかる。

今回の新演出は、ルパージュ演出のスペクタクルな機構がMETの組織全体にも浸透して、
躍動感のある、長さがちっとも苦にならない舞台仕上がりになっていた。

それにしても、この「ワルキューレ」という作品、
双子の兄妹による近親相姦やら、
夫がどこにいてもその行動をお見通しのこわーい妻やら、
神々の長なのに恐妻家の男やら、
暴力的で野卑な夫やら・・・・
妙に「人間臭い」ドラマだ。

ルパージュ演出は、舞台機構は大胆な手法を取り入れているが、ドラマの読み込みとしては極めてオーソドックスで、変な読み替えは一切なし。だから、ドラマと音楽が無理なく観客に伝わってきて、「人間ドラマ」に奥深さと広がりが出る。
ワーグナーの音楽の流れに、気持ち良く身を浸すことができた。

指揮は、ボストン響音楽監督退任を発表し、MET日本公演もキャンセルしたレヴァイン。
この春は、「ワルキューレ」のプロダクションが彼の最優先事項だったんだろう。
カーテンコールでは舞台に登場せずピットから拍手にこたえていたが、音楽は大きなうねりと豊麗な響きで流石に立派!Brabo!

幕間の特典映像で、レヴァインのMETデヴュー40周年ドキュメンタリーの一部が紹介されていたが、ドミンゴとレヴァインの「オテロ」の稽古風景が印象的。あのドミンゴを相手に出すレヴァインの声楽上のアドヴァイスの的確さ。そして、それを真剣に受け止め、自分のものにしていくドミンゴの素直さ。「一流」の者同士の心の通った音楽づくりの一端が感じられる。これも一見の価値ありですよ。

そうそう、もうひとつ特典映像。
ワーグナーのライトモチーフのことを、METオケの金管セクションが実演&解説するコーナーもあった。編集をしてあるとはいえ、わかりやすい解説で、ちょっとした音楽鑑賞教室みたい。こうしたことが表現できるもの、市民の理解と支持の上に成り立っているアメリカのオーケストラならではのことだろう。日本の音楽家も大いに見習うべし。

2011年6月8日水曜日

アシュケナージのロシア・プロ

■アシュケナージ指揮、N響第1705回定期公演
[2011年6月8日(水) サントリーホール]

昨年6月の超高速マーラーに辟易していたので、
あまり期待はせずに出かけたアシュケナージ指揮のN響定期。
今回のプログラムは・・・
ショスタコーヴィチ:弦楽八重奏のための2つの小品(弦楽合奏版)
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番
(独奏:神尾真由子)
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
というもの。

アシュケナージの「故郷」のロシア物だし、
正直なところ、そんなには悪くなかった。

それにしても、アシュケナージという人、
フレンドリーでいい人なんだろうが、
どうも「威厳」というか「有難味」に欠けるんだなぁ。

それに鼻炎なんだか、演奏中にしょっちゅう左手をジャケットのポケットに入れて、ハンカチを取り出しては洟をかむ。これが、見ていてなんとも目障り。
音楽の流れに対して、視覚的に別の要素が入ってしまい、見ていてどうにも音楽に集中できない。
おまけに、その指揮ぶりは、上腕から肩甲骨のあたりが「硬直」しているようで、ギクシャク、ガチガチ。

それでもオーケストラの人たちは「音楽」を奏でるんだから、ある意味大したもんだ。
・・・・と、そんなことに感心しながら、指揮台上のアシュケナージを観察しいていました。

2011年6月7日火曜日

これぞ現代の歌舞伎芝居

■花組芝居「番町皿屋敷」
[2011年6月7日(火) 座・高円寺]

歌舞伎のもととなっている「かぶく」には、
「かたむく」という意味のほかに、
「いたずらをしたり異様な身なりをしたりして、
放埒にふるまう」(角川・古語辞典より)
という意味がある。

歌舞伎がほとんど博物館的になってしまった今、
「かぶく」という言葉そのままに「放埒な」舞台を創り続けているのが、
加納幸和氏率いる「花組芝居」だ。

今回の上演作品は、
岡本綺堂の「番町皿屋敷」。
いわゆる「いちま~い、にま~い・・・」のアレだが、
原作は、旗本・青山播磨と腰元・お菊の純愛もの。
幽霊は出てこない。

これを「花組芝居」は、原作に忠実に「歌舞伎」的に描き、
その古典世界の中に現代感覚のギャグや遊びを自由奔放に散りばめ、
小気味良いテンポで上演した。

若手劇団員たちの「古典」の表現もなかなかのもの。
しっかりとした技術的訓練がつまれているから、現代的なギャグや遊びで「脱線」しても芝居がダレない。歌舞伎の世界と行ったり来たりするのが、気持ちのいいスピード感で楽しめるのだ。

はっきり言って、楽しめました。
現代の「かぶきもの」たちの楽しい芝居に拍手!

この後、福岡と名古屋での公演もあるというから、
西日本の方はオススメですよ。
特に、福岡では神社の能楽殿での興行だとか。

2011年6月4日土曜日

元気の源たる音楽

■洗足学園音楽大学打楽器アンサンブル
[2011年6月4日(土) 洗足学園・前田ホール]

洗足学園音楽大学の「打楽器」は、演奏会活動の盛んなことが特色。
いわゆる「クラシック音楽」のジャンルの中では「後発隊」の打楽器だが、
物を叩いたり擦ったりして音を出すということは
人類の歴史の中で最も古くから行われていたことで、
「音楽」全般の中では一番の「先輩格」。
そんな打楽器の演奏会は、見て聴いて面白いのがいい。

毎年12月に様々なジャンルの打楽器アンサンブルが登場する
「打楽器アンサンブル定期」とは一味違い、
今日の演奏会は「打楽器オーケストラ」の出演。

曲目も、
ヨハン・シュトラウス:「こうもり」序曲
チャイコフスキー:「くるみ割り人形」より
ファリャ:「三角帽子」より
という、楽しいプログラム。

しかも「くるみ割り人形」は、洗足のミュージカルコースの選抜学生によるバレエ付き。
こういう趣向が平気でできるのも、
多彩な教育内容で勝負する、昨今の音楽大学ならではもの。

演奏は、森茂先生の指揮で、若者らしく溌剌としたもの。
音楽が元気の源になるという、いい証のような演奏会。

梅雨の狭間の爽やか土曜日にふさわしい、
気持ちのいい演奏会でした。
Bravi!

2011年5月28日土曜日

イタリアオペラの醍醐味

■METライヴビューイング「イル・トロヴァトーレ」
[2011年5月28日(土) 新宿ピカデリー]

メトロポリタン・オペラのライヴビューイング、
今シーズンも、あと2演目。
しかも最後の「ワルキューレ」は、
あまりの長さからか、3枚綴りのMET-LV回数券が使えず特別料金!
映画館だって5時間以上も粘られたら、「特別料金」にせざるを得ないってことか?
ワーグナーってのは、どこまで行っても「規格外れ」な男なんだなぁ・・・。

おぉっと!今日の上演は、
オペラの「規格」の中で、きちんとドラマチックな世界を描いてくれた、
われらがイタリアの誇るマエストロ、ジュゼッペ・ヴェルディでした。

ちなみに再来年の2013年は、ヴェルディとワーグナー双方の生誕200年。
世界中の歌劇場は、どんなことになってしまうんだろうか・・・???

話を今日の上映にもどします。

今日観たのは、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」。
主役4人の配役は次の通り。

マンリーコ:マルセロ・アルヴァレス(T)
レオノーラ:ソンドラ・ラドヴァノフスキー(Sop)
ルーナ伯爵:ディミトリ・ホヴォロストフスキー(Bar)
アズチェーナ:ドローラ・ザジック(M.sop)

指揮は、レヴァインに代わって、マルコ・アルミリアート。
演出は、デイヴィッド・マクヴィガー。

主役の4人が、どれも力づよく、量感にあふれた歌唱と舞台上の存在感で、
いやもうイタリア・オペラの世界を堪能しました!
ヴェルディのオペラを歌うんなら、やっぱりこれくらいの体格と歌唱力がないとね!

それにヴェルディの音楽が、
なんと躍動感や推進力、情感にあふれていることか!
オペラである以前に、音楽というものはこうでなくちゃ!
こういう音楽にのってドラマが繰り広げられるから、
愛や憎しみ、嫉妬や復讐、その他もろもろ人間のドロドロが渦巻く世界を見せられても、
スカッ!とした気分で劇場を後にできるのである。

いやもう、イタリアオペラの醍醐味を思う存分堪能させていただきました。

キャストの中では、ルーナ伯爵を演じたディミトリ・ホヴォロストフスキーがBravissimo!
銀髪で格好良く、歌唱も演技も素晴らしい。
マンリーコを歌ったマルセロ・アルヴァレスもBravo!
この体格、野性味、声の艶と力強さは、イタリア人テノールの典型。
もう理屈なんかいらない世界。
レオノーラのソンドラ・ラドヴァノフスキーもBrava!
二人の男(ルーナ伯爵とマンリーコ)が恋の火花を散らして嫉妬に苦しむほどの、絶対的な美貌・・・というわけではないが、何よりも、ヴェルディ作品のヒロインに欠かせない声の力強さと気品がある。
アズチェーナのドローラ・ザジックは、ジプシー女そのものといった存在感。
深みのあるメッツォ・ソプラノで、唯一このドラマの人間関係の秘密を知る「女」を好演してBrava!

2幕冒頭の「鍛冶屋の合唱」をはじめ、兵士やジプシーたちに扮した合唱もBravi!
歌唱ももちろんだが、助演も含めて、一人一人の存在感が素晴らしい。
この量感を出せてこそ、イタリア・オペラだろう。

デイヴィッド・マクヴィガーの演出は、METの盆(回り舞台)を効果的に使い、スピーディな舞台転換でドラマをわかりやすく丁寧に描いていた。
複雑なドラマの世界と、その中で生きる登場人物の心理や関係がわかりやすい。
変な読み替えをする演出ではなく、METのこういうプロダクションには本当に好感がもてる。

というわけで、イタリア・オペラの醍醐味を思う存分堪能した3時間でした。

2011年5月26日木曜日

「1日3時間しか働かない国」

最近、街なかのカフェで仕事をしたり、本を読んだりすることが多い。
打合せや用事の場所にもよるが、この街ならこのカフェ、と、だいたい快適に過ごせる店というのはチェック済み。
当然、パソコンの電源の有無なんかも重要なポイント。

見ていると、営業と営業の間なのだろうか、スーツに身を包んだビジネスマンなんかも、結構長時間過ごしている。それも、ぐったりと居眠りなんかして・・・。

人は、一日に何時間くらい、仕事をするものなんだろうか・・・?
それも、ただ事務所にいるだけでなく、本当に頭と体がフル稼働して、
充実して「自分の仕事」をするというのは・・・。

まぁ、職種や立場にもよるだろうが、そんなにも長くはないはずだよね。
どうです皆さん?

そんなことを考えているときに出会ったのが、この本。

タイトルの上には、「誰もが幸せになる」とある。
原題は「Lettere della Kirghisia(キルギジアからの手紙)」。
著者は、シルヴァーノ・アゴスティ Silvano Agosti。
2005年イタリアで発表され、ベストセラーになった本だ。

キルギジアという、アジアのどこかの架空の国にやってきた西欧人の「僕」。
この国では、どんな職場でも、一日に3時間以上働く人はいない。
人間らしさを尊重する社会であるために、「時間」というものが大切にされ、
そこから生まれたゆとりある時間を活用することで、教育問題も医療問題も解決してしまう。政治問題だって家庭問題だって・・・。
そこで見聞きした感動を「手紙」という形で本国の友人に知らせるのだ。

荒唐無稽なお伽話のような国かもしれないが、
そこには行き詰まりきってしまい、打開の道が見いだせない欧米型現代社会(日本も含めて)の矛盾を解決するための、重要なヒントが含まれているようだ。

政治も経済も、電力問題も、すべてに行き詰まり感が漂うアジアのどこかの実在の国の人たちも、
お伽話だと思って読んでみるといいですよ。
お伽話とか昔話の中には、けっこう「真実」や「解決法」が隠されているものです。

2011年5月25日水曜日

「風をつかまえた少年」

世界中で話題の本を読む。

アフリカの小国マラウイの少年が、独学で風車を作って、自家発電に成功するというドキュメンタリー、
「風をつかまえた少年(原題:The Boy Who Harnessed the Wind)」だ。

主人公は、ウィリアム・カムクワンバという14歳の少年。
アフリカの最貧国といわれるマラウイで生まれ育ち、学校の通い始める。
しかし、国を襲った飢饉。
学費が払えず、学校も中退。
でも、この少年、図書室から本を借りては片っ端から読んでいく。
そんな中、出会ったのが「エネルギーの利用」という本。
表紙にあった風力発電の風車の写真に魅かれ、
やがて独力で風車をつくりはじめる。

風車があれば、井戸から電力で水を汲み上げることができ、
母親が往復2時間もかけて井戸まで水を汲みにいく必要もなくなる。
風車があれば、部屋に明かりを灯して、夜でも勉強ができる。
風車があれば、生活の中で電気を利用でき、収穫だって安定する。
この素朴な理想を現実のものとするために・・・。

そして、独力で発電の原理を習得し、
お金がないのでゴミ捨て場の廃品や使い古しのゴム草履などを活用し、
いとこや友人の協力を得て、
風車を作ってしまうのだ。
そして、そのことはある日、インターネットを通じて国境を越えて知られ、
国際会議で脚光を浴び、一躍有名人になる。
ほんのここ数年の話だ。

だが、この本に書かれていることは、そんな「風車をつくった」少年の単なる成功話ではない。
アフリカというものを理解する上で欠かせない、風習(それも魔術師!)や貧困、政治の混乱などが、アフリカに生を受け、そこで育っていった現代の少年の視点で活き活きと描かれている。
本の半分以上を占めるそれらの記述が実に興味深く、感動する。

物と情報にあふれている現代「先進国」社会。
震災からの復興に国家と国民の力が試されているこれからの日本。

現代の物質文明のまっただ中で、そしてまさにエネルギーを得るために原子力にたより、その事故で国内は混乱し、国際的信用も失墜しかけている日本で、今、この本が教えてくれるものは、あまりにも大きく深い。

今は20代の青年となってアメリカの大学に留学中のウィリアム・カムクワンバ君。
その活動を知ることができるHPはこちら。
http://williamkamkwamba.typepad.com/

これからの彼の活動を応援しながら、
「アフリカ」「マラウイ」にも注目していきたいと思う。

2011年5月23日月曜日

長距離列車だっておまかせ!

先日のドヴォルザーク特集のプログラムが、チェコ国鉄のベテランSL機関士のような指揮ぶりで楽しめたので、ペトル・ヴロンスキー親方のもうひとつのプログラムにも出かけることにした。

■ヴロンスキー指揮、読売日響第504回定期演奏会
[2011年5月23日(月) サントリーホール]

曲目は・・・・
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(独奏:清水和音)
マーラー:交響曲第5番

モーツァルトとマーラー、どちらもプラハとかチェコにゆかりの作曲家だ。

ドヴォルザークのときは、ローカルな急行か快速列車のような味わいだったが、
マーラーという「長距離列車」の長旅も大いに楽しめた。

ヴロンスキー親方の指揮ぶりは、「豪快」「闊達」「雄渾」「武骨」といった表現がぴったり。
音楽の「山」や「谷」を、大きなアクションで全身全霊で進んでいく。
情感を込めてたっぷり表現しているので、「長い」曲がそのまま「長く」感じられる。
でも、その「長さ」が苦痛にはならず、「車窓を満喫」できる旅の楽しさにつながるのだ。
マーラーの第5交響曲という、ある意味、見慣れた「景色」が人間の尺度で体感できた。

決してスマートな指揮姿ではないが、
こういう指揮者、好きだなぁ・・・。

ヴロンスキー親方、オーケストラ曲のときは安心して乗っていられるが、
合せもののコンチェルトは、けっこう危なっかしいところもあって、
かえって微笑ましかったりもするしね。
器用で無個性な指揮者が多い昨今、
こういう親方タイプで人間味の感じられるマエストロは貴重な存在。
けっこう気に入った!

2011年5月18日水曜日

二人のアレクサンドルによるロシア・プロ

■アレクサンドル・ヴェデルニコフ指揮、N響定期
[2011年5月18日(水) サントリーホール]

今回のN響B定期(第1702回定期)は、オール・ロシア・プロ。

グリンカ:「ルスランとリュドミラ」序曲
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ラフマニノフ:交響的舞曲

というもの。

指揮は、アレクサンドル・ヴェデルニコフ
ピアノは、シモン・トルプチェスキがキャンセルになって、
替りにアレクサンドル・メルニコフ。
(曲も、チャイコフスキーの第2番から第1番に変更)

二人のアレクサンドルによる、お国ものプログラムだ。

冒頭の「ルスラン~」は、とても豪快な演奏。
会場が一気にロシアの空気で満たされたよう。

次のチャイコフスキーのコンチェルトは、一転して甘~いお菓子のよう。
確かにピアノ・コンチェルトの名曲(というか有名曲)なことは確かだが、
久しぶりに聴くと、聴いていて恥ずかしくなるくらい、甘美なチャイコ節が満載。
それを二人のアレクサンドルが、甘いところは徹底的に甘く、
ロシアの一流ホテルのケーキ職人のように(行ったことはないけれど・・・)
描いていく。

後半のラフマニノフは、なんだかつかみどころのない曲だったなぁ。
聴くのは初めてじゃないけれど、どうも聴いていて今一つ曲にのりきれないのだ。
(これは、ラフマニノフを聴くときにいつも感じること・・・)
「交響的舞曲」というタイトルから連想されるように、
たとえばベートーヴェンの第7交響曲のような「舞踊の聖化」かというと、そうでもないし、
何かを描いている標題音楽というわけでもない。
甘いのか、豪放なのか、繊細なのか、広大なのか・・・・。
ひとことで言ってつかみどころがないのである。

まぁ演奏は、オケもよく鳴っていたし、良かったけれどね。

ヴェデルニコフの指揮は、ロシア人らしく豪快で闊達。
今度は、ロシア物でないプログラムで聴いてみたいな。

2011年5月16日月曜日

チェコのSLでめぐるドヴォルザーク

■ペトル・ヴロンスキー指揮、読売日響
[2011年5月16日(月) サントリーホール]

まるでチェコ国鉄のSL機関士のような印象の指揮。
朴訥としていて親方気質。
派手さや優美さは微塵もない。
でも、カーブから上り坂、トンネルや鉄橋など、
鉄路の特徴を知り尽くして列車を走らせるベテラン機関士のよう。
それも、国際特急とか花形列車ではなく、
普通列車かせいぜいはローカルな急行か快速。

予定されていたズデニェク・マーツァルが震災の影響でキャンセル。
急きょチェコから来日したペトル・ヴロンスキーの指揮ぶりは、
見ていてそんな感じがした。

曲は、オール・ドヴォルザーク・プロ。
1曲目は、「それーっ!お祭りだーっ!!」とばかりに、
威勢よくはじまった序曲「謝肉祭」。
続いて、アラベラ・美歩・シュタインバッハーをソリストに迎えての
ヴァイオリン協奏曲。
後半は、交響曲第8番。
列車の車窓からチェコの山河や小さな町の景色を眺めるような、
楽しい演奏会でした。
(鉄ちゃんとしても有名だったドヴォルザークの特集だから、
そんなことを連想させたのかも・・・)

ただし、ペトル親方のチェコ国鉄SL列車。
深紅のドレスに身を包んだ美貌のソリストとの協奏曲は、
なんだか運転しずらそうだったな・・・。
ソリストは情感たっぷりに歌いあげるんだけど、
どうもチェコ人親方の呼吸とは微妙に違うよう。
正直なところ、なんだか曲が長く感じられてしまった。

読響には1987年以来2度目の客演だとか。
今年65才。
この人で、ヤナーチェクとかスメタナとか聴いてみたいな。

2011年5月15日日曜日

音楽が先か言葉が先か・・・と言われても

■METライブビューイング「カプリッチョ」
[2011年5月14日(土) 新宿ピカデリー]

「カプリッチョ」は、リヒャルト・シュトラウス最後のオペラ。
オペラにおいて「音楽が先か、言葉が先か」という、
いわゆる、ブッフォン論争を題材にした作品。
だいたい、こんなことを題材にしなけりゃならないほど、
オペラ創作の世界では考えられることは全部やりつくしてしまった、
ともいえるのかも・・・。
もっとも、このオペラが作られたのが、第二次大戦まっただ中のドイツだから、
政治や民族なんかとはかけ離れた、あたりさわりのない題材にしたのかもね。

舞台はパリ郊外の伯爵の城の豪華なサロン。
ここには伯爵とその妹マドレーヌの二人が住んでいる。
(それと、執事や大勢の召使いたちも・・・やれやれ)
令嬢マドレーヌの誕生日の前日、
詩人や作曲家、劇場支配人(いわゆる演出家)、
パリの花形女優なんかが集まってくる。

伯爵令嬢マドレーヌに求愛する二人の男、
詩人のオリヴィエと作曲家のフラマンのライバル関係を通して、
音楽が先か言葉が先か、という一大テーマについて論じている。

まぁ、ひとことで言って、生の舞台芸術で観るには、あまりにもどうでもいい世界。
貴族の世界だろうが、古代の王家の世界だろうが、
そこに人類共通のテーマである
「愛」や「憎しみ」や「裏切り」や「友情」があるからこそ、
現代に上演されても人の心を打つのである。

貴族のお城で、
音楽が先か、言葉が先かって言われてもねぇ・・・。
たしかに、台本作者とか作曲家にとっては、
「音楽」と「言葉」のどちらを重視するかは大問題だろうが、
お客にとっては、
「楽しけりゃ」いいのである。
「感動すれば」いいのである。

そのことをオペラの中で演説してのけた劇場支配人ラ・ローシュの場面が
一番説得力があって、面白く見ることができた。
芸術家からみれば、彼は「俗物」かもしれないが、
お客の心をつかみ、興行を成立させるための
「職人魂」を持っているのだ。
(もっとも、この場合の「お客」とか「興行」は、現代とは同じではないけどね)

そもそも、オペラの中の繰り返しだって、彼の言うように、
お客には二度くらい聴かせてやらなきゃわかってもらえないからなのだ。
プロデューサーならではの劇作ノウハウである。お見事!
過去のオペラに対する批判があるんだろうが、
むしろこっちの方が説得力あるな。

召使いたちが後片付けの場面で、
「サーカス芸の方が好きだ」
とか言っているのを聞いて、
ああ、「芸術」と「エンターテイメント」が早くも分離しているんだな、
なんてことも痛感。

というわけで、わかっちゃいたけど、
あまりにもどうでもいい世界のオペラでした。

おっと、リヒャルト・シュトラウスの音楽は、美しくて素晴らしかったけどね。
それに、音楽的によく考え抜かれて作曲されているのも実感できました。
(でも、やっぱりオペラは弦楽六重奏じゃなくて、
心浮き立つ管弦楽の序曲で始まってほしいな・・・)

そうそう、
フィナーレの伯爵令嬢マドレーヌの独白の場面の直前、
月の光の間奏曲でホルンの音ががさついたのはいただけなかったなぁ。
リヒャルト・シュトラウスの音楽でホルンは最重要パートのはず。
プレッシャーもあるだろうが、ここは決めて欲しかったなぁ。残念!

ルネ・フレミング演じる伯爵令嬢は、さすがの気品。
劇場支配人ラ・ローシュ役のピーター・ローズが、
俗っぽさの中にも威厳と風格が感じられてBravo!

それにしても、イタリア人(イタリア人歌手の男女)って、
どうしてあんなふうに描かれるのかね。
ベルカントで歌って、食べて、愛して、言い争って・・・
これこそが「生きてる」ってことなのに!
音楽が先か言葉が先か、なんて考えるより、
よっぽど人間的である。
イタリア贔屓としては、こんなところも噴飯ものなのであります。

2011年5月11日水曜日

短絡的に楽しむオペラの観客

銀座界隈で食事をしようというとき何度か利用していたのが、手打ち麺が名物の中華「ヤンヤン」。
銀座四丁目の交差点から歌舞伎座方面に晴海通りを進み、三原橋交差点手前をちょいと左に入ったところにある。
狭い入り口脇に「麺打ち作業場」があり、
おじさんが麺を幾重にも伸ばしながら黙々と「打って」いる。
食べるところは2階。
おしゃれな銀座界隈にありながら、庶民的でまっとうな空間。
ここの麺は、手打ちだけあって、麺の太さにムラがあり、その食感が楽しいのだ。

ところがこの「ヤンヤン」、今週末で閉店してしまうという情報をネット上で発見!
なんでも、震災の影響で、中国人の職人さんが帰国してしまうからとか。
入り口で麺打ってたおじさんか?
こんなところにも震災の影響が・・・・。

そこでさっそく、「ヤンヤン」食べ納めに出発。
大好物の、胡麻をきかせた坦々麺・・・・
汗をかきかき味わって、お店にお別れ。

で、出かけたのが・・・

■METライブビューイング「オリー伯爵」
[2011年5月10日(火) 東劇]

早口言葉のような小気味良いパッセージ、
わくわくするようなクレッシェンド、
そして何よりも職人魂を感じさせるロッシーニの喜劇オペラも大好物のひとつ。
「セヴィリアの理髪師」1幕フィナーレの六重唱なんか、景気づけに聴くときの必須ナンバーだ。

この「オリー伯爵」は初めて観るオペラ。
ドン・ファン的なオリー伯爵が、十字軍遠征で男たちが出払ってしまった城の留守を預かる女城主を相手に巻き起こすドタバタ好色コメディ。
人気のテノール、ファン・ディエゴ・フローレスの巡礼尼僧変装姿が宣伝写真となっていて、何だか楽しそうなオペラ、と期待して出かけた。

キャストは、そのファン・ディエゴ・フローレス演じるオリー伯爵のほか、女城主アデルにディアナ・ダムラウ(ソプラノ)、オリー伯爵の小姓イゾリエにジョイス・ディドナート(メゾ・ソプラノ)という配役。
指揮はマウリツィオ・ベニーニ。
演出はバートレット・シャー。

で、感想はというと・・・

確かにロッシーニの喜劇オペラは楽しいんだけど、
なんだか「不自由」さとか「窮屈」な感じがしてしまったんだなぁ・・・。
それは、この作品が、作曲者がフランスに行ってから、フランス語で作った作品だからかもしれない。パリの空気の中で、自分の音楽やイタリア・オペラに対する期待感が知らず知らずのうちに重圧になってしまっていたのかも。
ロッシーニは、オペラの世界ではもう仕事をやりつくして、音楽からほとばしり出てくるような「才気」が何故か感じられないのだ。

コメディア・デラルテが、フランスをはじめヨーロッパ各地でもてはやされ、変質していくうちに、本来のイタリア的なエネルギーが減衰していったことなんかを連想してしまった。

ロッシーニは、このあと「ウィリアム・テル」を作曲して、オペラ作曲家としてのキャリアを早々とリタイア。ひたすら美食の道を探求して、ドットーレのような体型になっていくのでした。
(このあたりは、勝手な想像。こんど、ロッシーニの伝記でもちゃんと読んでみよう)

バートレット・シャーの演出も、イマイチなんだなぁ。
18世紀の劇場での上演という設定にして、舞台裏のスタッフ仕事や古風な舞台機構なんかを見せながら「劇中劇」風に進行するのは面白いアイディアなんだけど、その劇構造が活かされていない。
背中の曲がった舞台監督の爺さんの大儀そうな演技、その助手の若造が効果音の風音を出すウィンドマシーンを回す時の不気味な表情、それらの「意味」がちっとも伝わってこない。
出演者たちの、舞台のオンとオフの動きにも「違い」が感じられない。
「オリー伯爵」の劇中劇はともかく、「舞台外」にドラマがないのだ。

観客は、謎の隠者や巡礼女に変装して出てくるファン・ディエゴ・フローレスや、華のある天然ぶりで女城主を演じるディアナ・ダムラウ、ズボン役のジョイス・ディドナートなど、主役たちの喜劇的な演技に短絡的に笑っていたが、演出としてはまだまだ改善の余地が多くあって、不完全燃焼だな。

そうそう、主役たちの動かし方にばかり演出作業に時間をとられたのか、合唱はほとんどほったらかしの状態。
特に、1幕フィナーレの六重唱・七重唱のところなんか、合唱の動きがもっとあったら躍動感が増したろうに、残念!

オリー伯爵と女城主アデル、小姓イゾリエの3人が繰り広げる暗闇でのベッドシーン。
大儀そうな舞台監督の爺さんが、ベッドの背を起こして客席からもよく見えるようにしてくれる。
真っ暗闇の寝室で、男女3人の手足が絡み合いながら繰り広げる三重唱に、観客も沸いていたが、これを見ながら歌舞伎の「だんまり」という様式がいかに洗練されていて素晴らしい手法であるかを再認識。「見えていない」ということが、歌舞伎ではとてもよく「見える」のである。
残念ながら、シャー演出では、「見えてない」のか「見えている」のか、もっと言えば、相手を認識して「いる」のか「いない」のかが、どうでもいいような所作なのである。
観客は短絡的に楽しんでいたけどね。

もう一言、文句を・・・。
フィナーレで、城の女たちと、巡礼の修道女に化けて侵入したオリー伯爵一派の男たちが、十字軍の帰還にあわてて別れを惜しんだ後、帰還した夫たちと何食わぬ顔で再会を祝していたが、おいおい、城の女たちは巡礼女に変装した男たちを「受け入れて」たんだっけ???前のシーンで、何も描いてなかったんじゃなかったっけ?
女のしたたかさを演出したいんだろうけど・・・・・
う~ん、ドラマとしての描き方が雑なんだよなぁ。

まぁ、音楽の制約とかもあるんだろうし、描きたいことが全部描けるとは限らないのがオペラの難しさなんだろうけど、こういう「説明不足だけど描いちゃいました」みたいな演出にはストレスを感じるなぁ。

と、いろいろと辛口の感想を並べたが、観客はそんな細かいところまで観ずに、短絡的に楽しんじゃうようで、妙にその辺の空気に毒づきたくなってしまった次第。
このプロダクションだって、合唱や助演の部分をもっと緻密に練り込めば、いい舞台になると思うよ。

2011年4月28日木曜日

ヘリコプターで朗読を観る

頭上をヘリコプターが飛んでいると、
「何かあったんじゃないだろうか?」
・・・と不安に駆られる。

事件とか、事故とか、災害とか・・・。

飛んでいるヘリが、民間のものか、自衛隊とか在日米軍のものか。

民間のものなら、どこかの交通事故を取材にいく途中だったり、
休日の行楽地の取材なんていうこともある。

カーキ色のヘリだと、
どこかの国の軍事的挑発行為なんかをつい想像してしまう。

この間の大地震のときは、東京駅の丸の内口にいたが、
上空をすぐに報道のヘリコプターが飛びはじめ、
こりゃあ大変な災害だと直感した。

平常時には、あまりヘリコプターの出番はないもんなぁ。

というわけで、ヘリコプター・ネタで話を始めたが、
本日は「災害」でも「事件」でもなく、
五反田にある「アトリエヘリコプター」という小さなスペースに出かけた。

■KAKUTA Sound Play Series「朗読の夜」#6
「グラデーションの夜」~桃色の夜
[2011年4月28日(木) アトリエヘリコプター]

KAKUTAというのは、役者で演出家の桑原裕子さんを中心とした「劇団」。

彼女の創りだす芝居は、登場人物に「実在感」がある。
劇中の人間に「血」が通っているばかりでなく、
「肌合い」や「体臭」みたいなものまでもが感じられるのだ。

今回はいわゆる「朗読劇」だが、
単に本を読むだけでなく、
「語り手」と「演じ手」にわかれるという独自のスタイルで上演するという。
なんだか歌舞伎の義太夫物みたいだ。

歌とピアノとのコラボもあるというので、
どんな舞台になるのか興味と期待で出かけることにした。

読まれる短編小説は、
田辺聖子「いま何時?」
角田光代「わか葉の恋」
三浦しおん「春太の毎日」
の3本。

角田作品は図書館で読んだが、他の2本は未読。

その3作をつなぐ基礎構造として、「グラデーションの夜」というオリジナルの世界がある。
古本屋の女性店主が、ふらりと旅に出て、
どこぞ町の小さな宿屋で時間を過ごしているという設定だ。

その古本屋の店主や宿屋の女主人が本を読むと、作品の中の世界が眼前で演じられていく。


文学作品が立体的に演劇化するという仕掛け。まあ、セリフの多い、演劇になりやすい作品を題材に選んでいるせいもあるが、現代の演劇の在り方・作り方として、いい方法論だ。


題材の3作は、どれも「片想い」や「大人の恋」を描いた作品。それを、歌とキーボードの優しい音楽が、時にはBGMのように、時にはドラマを見守る天使のように包んでいく。


春の陽気と相俟って、心穏やかに観ていられる、ほのぼのとするような演劇的時間でした。


ひとつだけ、欲を言えば、漢字の読み方に誤り(玄武岩は「げんぶいわ」じゃなくて「げんぶがん」でしょう・・・)があったり、イントネーションに明らかにおかしな部分があったりして、聴いている方が一瞬「アレッ?」とストレスを感じてしまう瞬間があったのが残念。「朗読」という表現をキーワードにして上演する以上、やっぱりこういう部分も綿密に演出して、言葉に込められたメッセージや文化をきちんと伝えていく姿勢が大事だと思うよ。

2011年4月27日水曜日

皇帝は裸になれたか?

■ロジャー・ノリントン指揮、N響定期公演
[2011年4月27日(水) サントリーホール]

先日の面白くて楽しい(そして素晴らしい)「マーラー体験」に続き、
本日のプログラムはベートーヴェン!

「プロメテウスの創造物」序曲、交響曲第2番、
そして休憩後に、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
というもの。

数年前のモーツァルト同様、ロジャーおじさん、いろいろと仕掛けを施して面白くパフォーマンスしてくれるんじゃないかと、期待に胸ふくらませて出かけた。

そして、前半は見事にノリントン・マジックが的中。
小気味良いアクセント、旋律が浮かびあがってっくるようなフレージングの妙。
贅肉をそぎ落とし、「生まれたばかりの姿」のような、活き活きとしたベートーヴェンの音楽が披露された。

で、問題は後半の「皇帝」。
泣く子も黙るピアノ・コンチェルトの超名曲。
やっぱり、ピアノはベートーヴェンの時代から進化を遂げて、基本的にはロマンチックな楽器になってしまったんじゃなかろうか。ピアノの機能を十二分に発揮しようとすればするほど、オーケストラのノンビブラート奏法との世界観の違いが目立ってしまうようだ。
もっとも、これはピアニストの志向性にもよるんだろうが、今回のソリスト(ベルリン生まれの若手、マルティン・ヘルムヒェン)は、現代のピアニズムの王道を歩む人らしく、ロジャーおじさんとのノンビブラート実験には、あまり関心がないような「我が道を行く」音楽づくりだった。

もちろん、演奏が悪かったわけではない。
堂々とした(いや本当に堂々とした)立派な皇帝でしたよ。
ただ、ロジャーおじさん率いるオケとピアノとの化学反応を期待していたのに、「生まれたばかり」の皇帝のお姿が拝めなかったというだけ。

演奏後の指揮者とソリストは、妙に上機嫌だったけれど、前半の2曲ほどには面白くなかったなぁ。

それにしても、ロジャー・ノリントンという指揮者、見ていて本当に楽しいパフォーマンスをする。
来年もN響を振りに来るというから、今から楽しみだ。

2011年4月25日月曜日

カンブルランに元気をもらった!

■シルヴァン・カンブルラン指揮、読売日響
[2011年4月25日(月) サントリーホール]

「元気」のおすそわけにあやかりたくて、数日前にチケットを予約した。
カンブルランの指揮する読響の“チェコ名曲プログラム”だ。

なにせカンブルランという人、読響の常任指揮者就任披露の去年の春は、アイスランドの火山噴火。
そして今回は大震災。
とかく天災の影響を受ける人だが、その都度「万難を排して」来日してくれる根っからのプロの職人だ。
こういう人の舞台表現には、こちらも進んで触れにいきたくなる。

さてプログラムは、大好きなチェコ特集。
モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」にはじまり、ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」、スメタナの「モルダウ」、そして再びヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。

ヤナーチェク好きにはたまりませんなぁ!

冒頭には、メシアンの「忘れられた捧げもの」から第3曲『聖体』が献奏された。
弦楽合奏の静謐な響きの中に、「祈り」とともに「希望」が感じられる音楽。
メシアンのスペシャリストとしても知られるカンブルランらしい選曲だ。

さて、オケが一度退場して、改めて登場。
本編のはじまりはじまり。

モーツァルトは、ひとつひとつのフレーズの「息」を大切にするような演奏。
細かいパッセージの綻びなんかよりも、「流れ」を重視するかのよう。
その流れの中に、くすんだ響きなんかが感じられて、楽しめた。

お次は「タラス・ブーリバ」。
ヤナーチェク節が満載で大好きな曲だが、滅多に実演で接する機会はない。
チェコとかモラヴィアとかの民族色よりも、20世紀の音楽としての響きの新鮮さに着目しているような演奏。フランス人の指揮者が日本のオケを振っているのだから、妙に東欧的な民族色を強調するよりも、こういった解釈もあるのかと納得。かえって拍子の変わり目なんかがわかって、指揮姿を見ながら面白く聴けた。

休憩後の「モルダウ」は、アルプスから流れ出る急流に沿って氷河特急で下るような演奏。
いやはや「速い」!
水源の「水のしずく」からして、いきなりの急流。
「農民の婚礼の踊り」も「川面に映る月の光」も「古城」も、特急列車の車窓越しにどんどん吹っ飛んでいく。「聖ヨハネの急流」なんか、まるで大瀑布だよ。
こんなに早い「モルダウ」は正直言って初めての経験。
でも、なぜか楽しめた。
「名曲」の特権だね。

そして、フィナーレは「シンフォニエッタ」。
金管バンダの特異なファンファーレがさく裂して、ヤナーチェク節と明るい響きがホール内を躍動。

マエストロ・カンブルランはカーテンコールの出入りも小走りぎみにきびきびとしていて、とにかくコンサート全体がいきいきとした雰囲気になる。
それは、ロビーにいるオーケストラ・スタッフの表情やお客の心にも伝染して、会場全体が明るくなり活力が漲るようだ。
この人、今のこの時期に理想的なキャラですよ。
いやはや、期待通りに「元気」をいただきました。
Bravo!

2011年4月23日土曜日

ノリントンのマーラー

■ロジャー・ノリントン指揮、N響定期公演
[2011年4月23日(土) NHKホール]

東京では震災による重い空気も少しずつ平常の戻り、
オーケストラの演奏会も行われるようになってきた。

4月のN響定期の指揮は、ロジャー・ノリントン。
この人が指揮をすると、音楽が「生まれたて」のように聞こえてきて、実に楽しい。

数年前の客演で、モーツァルトの39番の交響曲を指揮したときなんか、
「ほら、ここのフレーズ、こんな響きです。面白いでしょ?」
とでも言っているような嬉々とした表情で指揮していたのが印象的。

そして、今回はなんとマーラー!
交響曲第1番をメインに、前半は「花の章」と「さすらう若者の歌」。

どんなマーラーを聴かせてくれるのか?
会場がNHKホールというのが気にくわないが、まあ自由席1500円也で聴けるんだから贅沢は言わない言わない。

客席に入って、舞台を見て驚いた。
オケの後方に、可動式の反響板パネルが5枚立てられている。
これで客席への音の「飛び」を良くしようというのだろうか。
会場全体の空間の広さはいかんともしがたいが、少しは音響上の改善になるのかも。親会社の放送局との関係で、当分はこの会場をメインに使わざるを得ないオケなんだから、いろいろと工夫を施して、聴衆が音楽を感動できる環境を模索してください。

さてさて、ノリントンのマーラー。
これが実に素晴らしかった。

ノンビブラート奏法を徹底させるだけでなく、各パートのバランスが絶妙で、フォルテッシモの音の塊の中にちゃんと内声部が聞こえるし、フレーズが湧き上がるように醸し出されていく。
どちらかというと、室内楽的ともいえる精緻なマーラーだが、「神経質」とか「内向的」とはではなく、しっかりと盛り上がるところは盛り上がる。

もしかして、マーラーはこんな響きや音楽の流れを思い描いて、この曲を作曲したんじゃないだろうか。

モーツァルトのときはいろいろと「小細工」を施して面白く造形していたノリントン、マーラーの場合は、作曲家自身のイメージがはっきりしていたのか、楽譜にきちんと様々な指示が書き込んである。だから、あまり小細工らしい小細工はしていない。むしろ、マーラーが音符として残した「響き」や「フレーズ」をオーケストラという「楽器」を使ってきちんと具体化することという、「プロの仕事」に徹していた。

それにしても、マーラーの曲に限らず、指揮台でオケの音楽に没入して大暴れしている指揮者を見かけるが、あんなのは「二流」だね。

とにもかくにも、ノリントンによる、面白く楽しい「マーラー体験」だった。

次回は来週、サントリーホールでのベートーヴェン・プロ。
こちらも今から楽しみだ。

2011年4月21日木曜日

ブログ再開

遅ればせながら・・・

震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。


2月の末から、このブログの更新を「怠けて」いたところに、
あの大震災。
テレビの画面を通して次から次へと伝えられる映像に、
正直なところ言葉を失っていた。

そして震災から40日あまりが経過。
このブログを「再開」するにあたり、
あの震災にふれないわけにはいかないと考えていた。

音楽だの演劇だのといった「舞台芸術」の世界に身をおくものとして、
これからは、
表現すること、表現されたもの「意味」を
いままで以上に深く考えながら活動せざるを得ないのではないだろうか。

正直なところ、
昨今の舞台芸術の世界は、
すべてではないにせよ、
甘く、社会性に欠けていたように思う。

そして今回、
あんな悲惨な状況を目の当たりにして、
「甘えた」表現は、もう許されないのではないだろうか。

これから接する舞台芸術に、
もしも甘えが垣間見えたとしたら、
それを指摘していきたい。
(うまくできるかどうかはわからないが・・・)

2011年2月16日水曜日

ジョナサン・ノット讃

■ジョナサン・ノット指揮、N響定期
[2011年2月16日(水) サントリーホール]

イギリス人指揮者ジョナサン・ノットの指揮を初めて体験。
いままで何となくあまり注目していなかった指揮者だったが、いやあ実に楽しめました。

どんな音楽にしたいのかのイメージが素直に的確に指揮姿から見えて、ストレスなく音楽が楽しめる。
オペラと現代音楽、それにオーケストラで叩き上げてきた人だが、嫌味なところが全くなく、音楽がノビノビとしている。
素晴らしい才能ですよ、この人は!

プログラムは・・・
ペルト:ベンジャミン・ブリテンはの追悼歌
ドルマン:フローズン・イン・タイム(日本初演)
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

ドルマンの曲は、いわゆるパーカッション協奏曲。
マルティン・グルービンガーという若手パーカッショニストが、マリンバやヴィブラフォン、ドラムやジャンベといった様々な打楽器群を、暗譜で「カッコ良く」演奏。
打楽器というのは、本当に視覚的にも楽しめる楽器だが、その「ノリ」の良さがオケや客席にも伝わって大喝采!
面白い音楽体験でした。

ロッシーニの「ウイリアム・テル」序曲のメロディーがパロディ的に何回も現れるショスタコーヴィチ最後の交響曲。
ショスタコーヴィチが、こういう曲を生み出した「ソ連」という国家体制。
その中での音楽創作。
その中での音楽家としての人生。
現代日本の安穏とした日常からは想像もつかないような、苦労や苦悩があったんだろうなぁ・・・。
今一度、ショスタコーヴィチ本でも読んでみるか・・・。

それにしても、今日の収穫は、ジョナサン・ノットとドルマンの曲でした。
Bravi!

2011年2月14日月曜日

さすがカリスマ・ゲルギエフ

■マリインスキー・オペラ特別コンサート「トロイアの人々」
[2011年2月14日(月) サントリーホール]

現代のカリスマ指揮者ゲルギエフが率いるマリインスキー・オペラの来日公演。

「影のない女」と「トゥーランドット」によるオペラ公演の間に、特別コンサートが3種類。
ベルリオーズの「トロイアの人々」、ワーグナー・プロ、そしてロシア・プロ。
これだけのボリュームの企画を全部一人で指揮してしまうゲルギエフもすごいが、それに付いていくマリインスキー・オペラの底力にも脱帽!

1部・2部あわせて4時間はかかる大曲のため、滅多に実演に接する機会がなく、全曲上演は日本初演となる「トロイアの人々」の公演に目をつけ、前売り早々にチケットを予約して出かけてきました。
ところが、ホールの客席に入ってびっくりした・・・というか、あきれた。
これだけ充実した音楽イベントなのに、入りが悪い!
悪すぎる!!
半分ちょっとといった感じかな。60~65%といった入場率。スポンサーがらみと思しき招待客もいたようだから、チケットの実売としてはもっと低かったのかも。

今をときめくゲルギエフが、渾身・充実のプログラムで東京公演をするというのに、この入りは情けないよなぁ・・・。
東京にはもはやこうした公演の「意義」がわかる文化芸術愛好者が少なくなってしまったのかなぁ・・・。
「低料金で身近に楽しめる」なんていう公演ばかり多くなってしまって、こういう世界的で、本格的で、超一流のイベントに手が出なくなってしまっているのかなぁ・・・。
だとしたら、公共ホールなんかが矢鱈と催す、「地域の文化振興のための」なんていう事業はこりごりだね・・・。

う~む・・・・・・
職業柄、いろいろあれこれ、考えさせられてしまった音楽会でした。

そうそう、演奏はそりゃあもう素晴らしかったですよ!
ゲルギエフのきびきびした音楽運びも素晴らしいし、ドラマが音楽にのって面白い。
歌手や合唱のアンサンブルも素晴らしい。
オケも最後まで体力を持続させて、余裕のパフォーマンス。

さすがカリスマ・ゲルギエフ!
天塩にかけて育てているマリインスキー歌劇場の見事なパフォーマンスを堪能させていただきました。

2011年1月30日日曜日

METの歴史的財産

■METライヴビューイング「西部の娘」
[2011年1月29日(土) 新宿ピカデリー]

NYのメトロポリタン歌劇場が100年前に初演した「西部の娘」。
その初演百周年を記念しての上演。
初演の指揮はトスカニーニ。テノールはカルーソー。作曲者のプッチーニも立ち会ったとか。
これこそ「歴史」というもんだ。

今回、主役のミニーはデボラ・ヴォイト、相手役のディック・ジョンソン実は盗賊ラメレスはマリチェロ・ジョルダーニ、保安官ジャック・ランスはルチオ・ガッロ。
指揮は、ニコラ・ルイゾッティ。

開拓時代の西部の荒くれ男どもの世界が忠実に再現されている。
そして、そんな荒くれどもの中にも、ホームシックにかかる若者がいて、故郷に帰る彼に仲間がカンパをする。そんな心やさしいシーンがあったりして、人間ドラマの厚みみたいなものが感じられる。
こういう変な読み替えをしない、原曲・原作に忠実な演出でオペラに接すると、本筋を支える細部の人物描写や情景などがいろいろと見えてきて面白い。

舞台美術も、舞台の上下よりも奥行きを活用した空間。
酒場の二階や首つり台などの高低差も活用して、とにかく空間をダイナミックに見せる。
この西部の酒場や町に、男声合唱の荒くれ男どもが動き回って、ボリューム感が自然に出ている。
いつものことながら、METの量的な組織力にはBravi!

ひとつだけ気になった点・・・。
聖書を読むシーンで、デボラ・ヴォイト扮するミニーが眼鏡をかけるのはいかがなものかな???
キスもしたことのない「娘」のはずなのに、あれじゃ老眼鏡にしか見えない。
当然のことながら、眼鏡を小道具で使うということは、ミニーは「近眼」(or遠視?)という設定なんだろうが、その「演出」が裏目に出てしまったなぁ。

2011年1月19日水曜日

編曲もの特集のプログラム

■イオン・マリン指揮、N響定期
[2011年1月19日(水) サントリーホール]

ルーマニア出身の指揮者イオン・マリンが振るN響定期。
プログラムはブラームスの「編曲物」ばかりによる凝った選曲。

ブラームス(ドヴォルザーク編):ハンガリー舞曲集から第17~21番
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
ブラームス(シェーンベルク編):ピアノ四重奏曲第1番

ね、なかなか凝ってるでしょ?

で、演奏はどうだったのかというと、悪くはないんだが、今一つ感動には遠いんだなぁ。

ブラームスのハイドン・バリエーションなんか、往年の名指揮者の実演や録音で、さんざん名演に接してきているだけに、プログラミングと同様、いろいろと凝った細工が音楽の自然な流れを妨げてしまっているよう。特に、冒頭の主題なんかテンポが遅すぎて、素材はわかったから早く変奏を聴かせてよ、とじれったくなってしまうほど。何事も考えすぎはよくないのかな。

「ピアノ四重奏曲」の最終楽章、“ロンド・アラ・ジンガレーゼ”、つまりジプシー風ロンドなんか、プログラム冒頭のハンガリー舞曲と好対照をなしていて、躍動感があってなかなか面白く聴けたけれども・・・。

音楽の深みとか自然な流れっていうのは、今の若手・中堅指揮者には望む方が酷なのかねぇ・・・。
なんだか昔を懐かしむ年寄りじみた感想になってしまった。

2011年1月15日土曜日

3人の歌姫

■二期会ゴールデンコンサート「歌姫たちの饗宴」
[2011年1月15日(土) 津田ホール]

安藤赴美子、日比野幸、文屋小百合という、二期会の若手ソプラノ3人によるコンサートに出かける。
前半は歌曲、後半はオペラ・アリアという構成だが、三者三様、それぞれの個性や芸術的な方向性の違いが選曲にも表れて、変化に富んだ楽しいコンサートとなった。

なかでも安藤赴美子は、声に強さとふくよかさと張りがあって、ディーバ(歌姫)の気品と貫録充分。華やかなグランド・オペラでの活躍が楽しみだ。

文屋小百合は、歌曲が平井康三郎の日本歌曲、オペラ・アリアが團伊玖磨の「夕鶴」から“与ひょう・・・からだを大事にしてね”と、プッチーニの「蝶々夫人」から“ある晴れた日に”という、「和」にこだわった選曲。舞台衣裳も振り袖の着物。この人はこれから、「日本路線」を大切にするんだろうな。


日比野幸は正統派イタリア路線。悲劇のヒロインなんかが似合う人だ。

お正月の華やかな雰囲気にも相応しい、楽しいコンサートでした。

2011年1月9日日曜日

2011年のオペラ初め

■METライブビューイング「ドン・カルロ」
[2011年1月9日(日) 新宿ピカデリー]

今年の「オペラ初め」は、生の舞台ではなく、映画館で。
METのライブビューイングのシーズン4作目、ヴェルディの「ドン・カルロ」だ。
休憩入れて4時間を超える上映だが、ワーグナーの楽劇なんかに比べて音楽のノリがいいし、「歌」があるし、喜怒哀楽のメリハリがあるし・・・ちっとも苦にならない。

配役は、ロベルト・アラーニャがタイトル・ロール。大奮闘。Bravo!。
フェルッチョ・フルラネットの国王フィリッポ2世、教会に操られ、息子には裏切られ、妻には愛されない王の苦悩が滲み出ていて、なかなかよろし。Bravissimo!
王妃エリザベッタのマリーナ・ポプラフスカヤは、顔の造作の印象からか、あえて意地悪く言えば,、高貴さと可愛らしさに欠けるかな。ま、これは女性の顔に対する好みの問題だけど・・・。あれだけエラが張っていて、目鼻口が顔の中央に集中しすぎているとねぇ・・・。
ロドリーゴのサイモン・キーンリーサイドは、ちょっと老け過ぎ?舞台向けというより映像向けのような細かな仕草が、かえって目障りなことも。
エボリ公女のアンナ・スミルノヴァは、「私の美貌が・・・」というにしては、ちょっぴり丸々しすぎ。ま、嫌いじゃないけどね・・・。

演出は、METデヴューのニコラス・ハイトナー。抽象化した大胆な舞台装置の枠組みの中に、伝統的ともいえる衣裳や小道具。主要登場人物の苦悩が、ドラマの中に解りやすく浮かび上がってくるような演出でBravo!

2011年1月8日土曜日

元気ハツラツ!佐渡裕&シエナ

■シエナ・ウインド・オーケストラ結成20周年記念コンサート
[2011年1月8日(土) サントリーホール]

佐渡裕指揮によるシエナ・ウンイド・オーケストラの演奏会には、いつも元気をもらえる。

結成20周年記念コンサートの東京公演は、「カルミナ・ブラーナ」一曲のみ。
しかも、朗読を入れて、ケレン味たっぷりに演奏。

「ケレン」は、歌舞伎の世界で猿之助や勘三郎なんかが、本水や宙乗り、早替りなんかを交えながら、面白く、スピーディに見せる舞台のときに使われる用語だが、佐渡&シエナの演奏会も、まさにケレンの極致。でも、ケレンだからといって、決して表面的効果ばかりを狙った中身のない演奏というのではない。こんなにも全体の構造がはっきりわかって、面白く聴けた「カルミナ・ブラーナ」は、これまでに経験がない。

そして、客席を埋めた聴衆の、なんとノリのいいこと。
会場全体が、張りとノリに満ちている、そんな演奏会でした。

2011年1月7日金曜日

2011年の演奏会初め

■東京芸術劇場ニューイヤーコンサート2011
クラシカル・プレイヤーズ東京演奏会
[2011年1月7日(金) 東京芸術劇場]

お正月飾りも今日まで。七草粥も食べた。

そして、今年最初の舞台芸術は、東京芸術劇場のニューイヤーコンサート。
とはいっても、ウインナワルツ物ではない。
有田正広氏率いるクラシカル・プレイヤーズ東京の演奏会で、ハイドンとモーツァルトのプログラム。

ハイドン:交響曲第103番「太鼓連打」
モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲
  (独奏は、有田正広&吉野直子)
モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」

親しみ易くもあり、聴きごたえもあり、のプログラムだ。
楽器はオリジナル楽器なので、モダンのオーケストラとはピッチも違うし、音程の不安定さなどもある。
しかし、聴きなれた曲にいつもと違う微妙なニュアンスを感じられる仕掛けがあって面白い。

ハイドンの「太鼓連打」の冒頭なんか、ティンパニの堅い音によるトレモロが不気味なくらいの「音」の効果で、これから一体何が始まるんだろうか、といった雰囲気。初演当時のロンドンの聴衆も驚いたんじゃないだろうか。

モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲も、独奏楽器は当然ヒストリカルなもの。ヒストリカルハープというものを初めて聴いたような気がするが、意外とよく通る綺麗な音がする。こちらは、マリー・アントワネット時代のパリの雰囲気。

そして、モーツァルト最晩年の「ジュピター」。何かを必死に訴えたいような、何かに向かって突き進んでいるような、そんなモーツァルトの心が感じられる演奏だった。

2011年1月1日土曜日

ホームページ新装開店

あけましておめでとうございます。

年末年始はいかがお過ごしですか?

私めは、今年は「第九」の演奏会にも行かず、年末は、「年賀状作成」「資料等の大処分」「大掃除」「おせち料理」・・・と、伝統的な日本の年越し行事。

過去には、カウントダウン公演の担当として劇場で年越ししたこともあったし、イタリアのシチリアで新年を迎えたことも・・・。

でもやっぱり、日本の年越しが一番。

大晦日は、最後の大掃除をして、風呂に入り、年越し蕎麦を食べて、テレビ東京の「年忘れ!にっぽんの歌」で、演歌やムード歌謡に涙を流がし、NHK「紅白歌合戦」へとハシゴ。

そんな年末の時間が穏やかに過ぎていき、やがて「ゆく年くる年」・・・少し離れたところの寺からも、除夜の鐘が聞こえてくる。 そして氏神様に初詣。

いいなぁ・・・。

今年は、そんないつもの大晦日に、デラルテ舎ホームページのリニューアル作業が加わった。
今まで親しんでいただいたホームページを全面的にリニューアル。
イラストレーターの酒井うららさんにお願いしてコメディア・デラルテのキャラクターを描いてもらい、トップページはアニメーション化した。これが結構楽しい!
このブログをお読みくださっている皆様も、是非、新装なったホームページをご訪問ください。
ちなみにトップページのアニメーションは5パターン用意してあります。

デラルテ舎ホームページ
http://www.dellarte-c.com/

それでは、2011年が笑顔にあふれた素敵な一年となりますように!